諏訪原城  二の曲輪東出丸発掘報告の要点②

まずは敗戦の腹いせに憎まれ口を叩かせてください。

未来の確定予想を私がここで記すなどはおこがましいことですが、女子サッカーのオリンピック参加について私の推理を申しますと今年は「無理っぽい」「かなりの暗雲」という表現となりましょう。

 

身長差歴然の中、当たり負け、苦し紛れのバックパス。

中央付近での混戦勝負はお相手も御見通しの様。

マークを外してドフリーでヘッドを押し込まれた段階で「今年は無理」を感じてしまいました。

面白かったのは例によって解説者は不明用語「~らしさ」をすこぶる連発。

 

強風については追い風サイドだと球速、球足の速さが攻撃の詰めの甘さとなったと不満を語り、向かい風サイドだとボールが届かない歯がゆさを嘆いて得点ができないその理由にしていました。見ていて完全な負けパターン。

3点目が入ったあとは4点目がいつ入るかとい自虐的期待と解説者の語り口の方に興味が移っていました。

あとの試合を全勝するということがあれば別ですが、朝鮮半島同士両国の戦いが引き分けだったことはかなり日本には不利に動きそう・・・。

 

さて、歴史というものにも確定的断定をしていくことはできませんし、それができることはごく稀なことです。

たとえばそれは私たちの中学高校と学んできた教科書の記述が現在のものと比べてみると微妙に異なってきたことからわかります。

 

著名な神護寺に残る3点の肖像画、そのすべてがそうですが、諸説入り乱れ、見慣れていた源頼朝像など今や「伝」付きとなっているくらいです。

そのように時代背景や各記述、伝承等、多方面からの検証によって「説」というものが出てくるのですが、それはあくまでも「説」であって「確定」ではないのです。

 

素人の私どもが面白可笑しく語る場合以外、断定的な処断は歴史を学ぶにあたってタブーなのですね。その断定的な推理がしばらくたつと「本論」になってしまう可能性をはらむからです。

 

たとえば三日月堀に丸馬出しは武田築城術、畝堀は北条氏流、薬研堀は武田というような半ば歴史通の一般概念のようなものがありますが、そもそもそういった決め付けはオカシイのです。

家康だったりそれらと関わった反対勢力があの効果的な技術をそのまま継承したり、模倣したことも考えられます。

 

だいたい、堀普請の場合、時間的に余裕の無い場合は箱堀(コの字をひっくり返したカタチ)を作るより薬研堀(V字に掘る)を目標にした方が何より早いですね・・・。

深さにもよりますが箱堀は大規模な工作が必要となりましょう。薬研堀はどちらかといえば「掘りっぱなし」でいかにも簡易かも。いわゆる塹壕を深く掘り進んでV字に広げればOK!・・・のような。

 

諏訪原城の遺構というものは元は武田勝頼が作らせたものですので武田流の基礎があったことは当たり前ですが、「家忠日記」によれば彼の諏訪原城に入ってからの城普請についての記述は多数にのぼります。

いつもお世話になっている第一駐車場あたりをいうのか「牧野市場普請」ほか「番普請(城門)」、「堀普請」が複数に及んでいます。

 

よってこちらの発掘調査はその改変の有無を推測しながら掘り進むそうですが(勿論重機なしの手堀)、「元の姿+改変」があれば武田流ベースの推測、「改変無し」の場合は徳川占拠あとの家忠などの普請のあとと解しているようです。

 

「二の曲輪東馬出」の薬研堀は「改変無し」で手が入っていないよう。ということで徳川方の薬研堀の遺構かという推測が成り立つのでした。

そうなると付属構造物の丸馬出に沿った半円形(三日月型)の堀であったとしてもそれは徳川時代に追加されたのではないかという判定にたどり着くそうです。

 

画像中央の子供たちが先日記した考古学好きの姉弟

丁度崖っぷちでお姉さんの方がしゃがんで何かを摘まんでいるところです。

「何して遊んでいるのかなぁ?!」と思っていると「コレはどうかしら・・・」と。発掘現場では生活痕跡が出土していないということを聞いていましたので驚きましたが、これはどう見ても土器、焼の甘そうな須恵器風の破片です(右上図)。

 

土器については後世のものか生活痕跡なのか検証する必要がありますが将来どんな女の子になっていくのか楽しみです。

 

彼女が地層を指さしている図は、この曲輪の試掘トレンチですが、茶色に変色している部分が武田退去時の地層と言われています。その真下の黒い層が生活層。なぜなら武田勢は城を捨てて小山城方面に退去する際に、火をかけたという記録があります。

 

こちら「二の曲輪東馬出」から出土した鉄砲の弾は今年だけでなんと9個の出土(右下画像)。

べてこの茶色の層の下から出ています。

ということは鉄砲は徳川方から撃ち込まれたものばかり。

 

鉄砲の弾は先に発掘調査をした「本曲輪」で6個。

「二の曲輪東内馬出」で14個、二の曲輪等中心付近出土数含めてトータル40個代出ているとのことですが、狭小な「二の曲輪東馬出」での9個という発見はかなりの激戦を感じさせるものです。

 

左下図の10円玉サイズの円形のものと細い円柱のものも同時に出土したそうですが、今後の研究課題、今のところ何なのか不明とのこと。

素材は「鉄」と仰っていましたが見た目は鉄の純度は低そう、緑青の吹き方もあるようでむしろ銅っぽい気もします。

 

島田市では今年の12月に諏訪原城についての報告会を催す予定があるそうですので、牧之原市の小和田先生の講演会も含めて期待しています。

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コメント: 2
  • #1

    くりくり (水曜日, 02 3月 2016 00:12)

    今回、いけずに残念でした
    鉄砲玉でてるんですねすごいです
    高天神は、激戦にもかかわらず、
    ほとんど出てないとのこと

  • #2

    今井一光 (水曜日, 02 3月 2016 12:41)

    ありがとうございます。
    諏訪原現説に関しては島田市の看板ですから、これからも
    行われるでしょう。事前情報を得ましたらまたアップさせていただきます。
    高天神に出て諏訪原に出ないというのは
    二の丸もそうですが谷下から上の曲輪への発砲が想定され搦手方向に落下したとか
    発掘は土塁近くでたまたま出なかったとか後講釈はいろいろつけられますが、不思議なことですね。
    土壌の酸性レベルが高いと発見は厳しくなるかと思います。
    掛川市の見解については調べていません。