戦に送ったわが子を思う母の心  裁断橋の念仏

戦時下、我が子を戦場に送ったきり、二度と再会できなかったという悔恨は色々なところで耳にしてきました。

南方より帰還したその姿は砂浜に転がる石ころに代えて累代の墓地へ納めたというお話などがそうです。

 

先に「ふろんぼ」様で記した鈴木権蔵重俊は弱冠22歳で討死したといいます。

若い息子が(わが身より)先立つことは「あり得ることと」は心のどこかしらにはあるものの、ただし我が子にあっては「決してあってはならない」と思うのが母親の心境。

あたりまえですね。

 

そしてその「あってはならない」厳しい現実に遭遇し、多くの同じような境遇の「母」たちのそんな思いを代するが如く伝承される「母と子」の話が尾張の地にあります。

その母の思いは「我が子を忘れないでほしい」なのですね。

 

人は日々の生活にあくせく動いてつまるところわが身の処世に一所懸命、どんなに悲しんで一同涙したその者の葬儀であっても、時間の経過とともに、同座した近親者そのものも一人去り二人去り、時間の流れとともに人々の記憶から薄れていくものですね。

致し方ないといえばそうなのですが、当事者(母)としてはやるせない虚しさに苛まれるものです。

 

先般久しぶりに国宝指定となった松江城。

その城の築城といえば堀尾吉晴ですが、関ヶ原の功によってこちらに入封したわけです。それ以前には秀吉の命で家康が関東に赴いたあと遠州浜松城に入って城の改変に着手しています。

 

堀尾家は元は尾張丹羽郡御供所を領した豪族で徳川家からすれば旧秀吉傘下の外様ですね。堀尾家は三代で遺子なく改易と相成っています。

守護、斯波配下の岩倉織田家中にあって、弾正忠家の信長の手で岩倉織田が滅びると、尾張統一を果たした信長のもとに。

その後、秀吉につけられています。

秀吉に従った尾張出身者のトントン拍子の出世のパターンでもありました。

 

系図や血縁にまちまちの情報がありますが、堀尾吉晴の子あるいは堀尾方泰(吉晴の叔父)の子ともいわれる堀尾金助とその母の談が伝わっています。

地元史料では「父の方泰が病気のため叔父の泰次に伴われて御供所を出発し、従兄の堀尾吉晴に従った」との記述があります。「戦国の母」のお話です。

 

天正十八年(1590)の小田原征伐に向かう秀吉軍の中、吉晴ら堀尾一族ともども参戦し、山中城で初陣後、陣中にて十八歳を一期として亡くなったとのこと。

 

若き息子の初陣の後ろ姿を熱田神宮近くの「裁断橋」まで見送った母でしたが、しばらくして友軍大勝利の報。

浮かれた気持ちで彼の凱旋帰還を迎えに行くも、周囲の再会を喜びあう家族の中、待てども待てども息子の姿は見えません。

すると彼の最期を看取ったという者が彼の遺品を持って現れたという件です。

 

その後母は息子と最期に別れと再会の希望を告げた「裁断橋」に息子への思いを重ねて都合2度の橋の改修付け替え工事を私財をなげうって行いました。

 

御供所の堀尾家屋敷跡とされる「堀尾跡公園」(場所はここ)

は以前記した小口城の近隣、大口です。

今はその「御供所」という地名はそのお隣になりますが、こちらの現地名はそのものズバリ

「愛知県丹羽郡大口町堀尾跡」。五条川の流域になります。

一応供養塔の案内がありました・・・

 

熱田神宮付近にあった裁断橋は現在は消滅していますが、母の思いを継承すべくこちらの公園の五条川にかつてあった姥堂とともに復元されています。

私が訪問した際は工事中でした。

金助の母が橋の欄干の擬宝珠に記した銘文はこちらに。

実際にひらがな文と漢字文2種類があります。

 

 

「てんしょう十八ねん 二月十八日に おだはらへ 

御ちん(陣) ほりおきん助と申(す) 

十八になりたる子を たたせてより 又ふためとも見さる かなしさのあまりに いまこのはしをかけるなり

 

ははの身には らくるい(落涙)ともなり

そくしんしょうふつ(即身成仏)し給へ

いつかんせいしゅん(「逸岩世俊」―法名)と のちのよの

又のちまで此(の) かきつけを見る人は 念仏申給へや 

三十三年のくやう(供養)也」

 

「熱田宮裁談橋 右檀那意趣者 掘尾金助公 

去天正十八年六月十八日 於相州小田原陣中逝去 

其法名号 逸岩世俊禅定門也 慈母哀憐余 修造此橋以充卅三年忌普同供養之儀矣」

 

現物は名古屋市博物館に収蔵されているようですが、複製品は近隣の大口町史料館(地図は上記)で見ることもできます。

 

「逸岩世俊禅定門」は上記の通り、金助の法名ですが、堀尾吉晴は彼の菩提を弔うために妙心寺塔頭に寺を建てています。「俊巖院」ですが、その名は金助の法名の「逸岩世俊」から。

俊と岩→巖です。

 

現在は堀尾家に近い石川憲之(近江膳所―伊勢亀山―山城淀)によって春光院という名に変わっています。堀尾家は断絶してしまいましたので・・・(場所はここ)

 

石川憲之は母が松江二代堀尾忠晴の娘で代々堀尾家とつながりのある家で、幕府に許容度があれば、十分に堀江家の無嗣断絶改易という惨い仕置きには対応可能なはずでした。石川憲之は三男の勝明に堀尾を名乗らせて、堀尾家再興を画策しますが、実現はできなかったようです。

画像は京都妙心寺の塔頭春光院。

拝観拒絶のお寺ですので門前のみ。