紛らわしい尾張織田家 守護代時代   小口城織田

平城小口城の外観を一見すれば要害性というものがまったく感じられませんが、これは周囲が宅地化されているということもありましょう。

当時は二重の堀(外が水堀で内が空堀と勝手に想像)と土塁に囲まれていたそうですし、五条川とその支流に囲まれた湿地帯に浮かぶような姿だったのではないかと思います。

 

城と言えば急峻な山岳系をどうしても思い浮かべて、平城の脆弱性がイメージされるところですが、案外平城は周囲の泥湿地帯を利すればその防衛耐力は山の城に見劣りしないところがあります。ただし、攻城軍を迎撃するに「高低差」の利益を得るためにある程度高い小山に城を構えることが得策となります。

 

「高低差」の利益とは要は高い位置から低い位置への応戦はすこぶる効果的だということです。同じ弓矢であっても下から上を見上げて撃つより上から下に発射した方が直線的になって命中度がアップしますし、飛距離も断然違います。

何せ金属製の鏃は重量があって上に向かって撃つとなると威力は減衰して下手をすれば目標まで届きません。

矢はそもそも直線状に発射するものではなくて、特に遠距離の場合は落下点を計算して上空目がけて撃つものですから。

 

まして当時の武器として必需だった石つぶて(投石)の効用を考えれば上下どちらが有利かは一目瞭然。

予め大きな石を城内にため込んでイザという時は上から投げたり転がしたりです。兵力拮抗の小名、国人クラス同士の戦闘で、まともに戦えば籠城軍勝利は確実でした。

 

国人領主の城塞のスケールがだいたい100m×100m(頭陀寺城)

を考えるとこのコンパクトな敷地について、まんざら防御性から見て悪くない広さだと思います。

その外側を堀と土塁で囲んで、四隅に高櫓を配置すれば各櫓の受け持ちは半径50mで可となります。

堀と土塁で足をもたつかせている敵軍を中央曲輪からの攻撃を含めれば三方から狙い撃ちする事になります。

十字砲火ならぬ弓矢の雨を降らせて敵を蹴散らすことができたのでした。

 

その後勢力差が開くことによって大多勢による攻城や夜襲などの一気呵成の攻撃にも対応しなくてはならないという課題が発生してきます。所詮常時360度四方の防御はキツイですし。

敵方としてもは火矢をかけるなどして櫓潰しをまず行おうとするのが常套ですので。

 

戦国初期の国人領主には自領とした田の中に館を構える形式(平城に発展)から徐々に近くの山の上に城を築く方がベストである(平山城)という方向転換があったと思われます。

または攻め方としてそのような平城を落した者がその欠点を見抜いて、自らは山の上に城館を築くという進化があったのでしょう。

 

小口城と同様に城内の脇を五条川が流れる清州城も、今は模擬天守がそびえていますが、当時はこちらと同様の平城だったはずです。そちらから信長がこの小口城の近隣にある小牧山城(平山城)に入りその後に山城としては天下一品、生半可な徒歩組を寄せつけない稲葉山城(岐阜城)に入ったこともその流れを受け継いでいるかと思います。

小口城を本格的に大軍で攻めたのは織田信長です。

信長は何とか城を落し切りますがかなり難儀したようです。

 

さて、この小口城は小牧長久手の戦い(天正十二年 1584)にて秀吉方の出城として稲葉一鉄の名とともに歴史に登場するのが最期ですが、そもそも築城は織田広近(長禄三年 1459)です。

兄の織田敏広とともにこの一帯を治めています。

 

標記「紛らわしい」のはまさに遠州忩劇の国人衆割拠以上のものがあるということですが、この辺りの有力者はみんな「織田家」です。織田家といえば信長の名が筆頭ではありますが、その織田家は織田家中数ある中での下剋上を成し遂げて尾張を統一した家です。信長の家は始めから惣領家では無かったということです。

 

当時の織田家についてわかりやすくざっと記せば

 

A 岩倉織田(伊勢守家)の統治する

上四郡」(丹羽・葉栗・中島・春日井)

 

B 清洲織田(大和守家)の統治する

「下四郡」(海東・海西・愛知・知多)

 

で守護代2系統。勿論守護は遠江(横地・勝間田あたりまで)と同様に斯波氏です。

斯波氏が応仁の乱で内部紛争を中央で繰り広げている間にこちらでも守護代勢力が力を付けていたということです。

守護代2系統など本来は守護斯波惣領家としては理解不能であったでしょうが、これは中央での斯波氏2系統(東軍 斯波義敏    西軍 斯波義廉)とそれぞれがリンクしているからですね。

 

A 岩倉織田(伊勢守家)が本来の織田惣領家で上記小口城を築いた織田広近の兄の織田敏広が祖となります。

 

B 清洲織田(大和守家)はそもそもA岩倉織田(伊勢守家)の分家であり格から言えば「守護代の代官」の家系で織田敏定が祖といいます。

 

そして

B 清洲織田(大和守家)には配下に「清洲三奉行」と呼ばれる「織田」があります。

 

1 因幡守家  

2 藤左衛門家

3 弾正忠家

 

3 弾正忠家の祖といわれる織田良信の曾孫が織田信長ということになります。

 

登場人物が「オール織田」というところが話をややこしくしているのです。詳細もあまりハッキリせず、家系も養子、兄弟、伯父甥説が入り乱れている点もそれに拍車をかけているようです。

 

画像は小口城櫓に上って,ネット越しで撮影した小牧山城(黄○)と犬山城(赤○)。目を凝らせば肉眼でも確認できます。

小牧山は鉄塔が重なって見にくいです。他は城内と資料館。