元禄曽我物語と伊勢亀山城

丹波国の「亀山城」と酷く紛らわしい、伊勢国の「亀山城」があります。江戸期に丹波亀山城の天守取り壊しの令を受けたキレ者の美男子として名のある堀尾忠晴に間違ってこの城を壊されたというエピソードが残っています。堀尾家といえば関ヶ原前に忠晴の父忠氏・祖父吉晴が浜松城に居たということで遠州には縁のある家ですね。一昔前ですが「世界の亀山モデル」(液晶テレビ)と一世を風靡したことでもお馴染みです(場所はここ)。

 

この城は戦国期では国人領主の関氏と蒲生氏郷が領主として顔を出しています。徳川将軍の上洛経由地の宿泊地として利用された城で、藩主(城主)は二の丸住まいでした。

私の当地への訪問は櫓の修復完成前でしたので、石垣等をサラッと見ておしまい。

 

この地で後世人気となり、読み物、歌舞伎や浄瑠璃のベースとなった事件がありました。

小田原の曽我兄弟の仇討の如く、それの元禄時代版です。

こちらは「石井兄弟」で相当の脚色がなされたうえ「元禄曽我物語」「亀山の仇討」という名で世に出たようです。

兄弟力を合わせて「敵を討つ」あるいは忠臣蔵の如く、皆で力を合わせての敵討ちストーリーは日本人皆、大好きですね。

 

登場人物を記します。「石井宇右衛門」は「赤堀源五右衛門」に討たれたことによりその仇討劇は始まりますが、石井の遺児には3人の男子がいました。

長男「三之丞」は元服済み、次男「半蔵」五歳、三男「源蔵」三歳というのが父親絶命の年関係でした。当初長男の「三之丞」独りが父親の敵討ちをと赤堀を探索し、彼の継父まで行き当たりそれを討取る事に成功します。

さらに本意を遂げようと赤堀を誘導しようとしますが、逆に赤堀に探索され油断の時、討取られます。弟たち2人にとっては「父と兄の敵」となったわけで、「怒り」と「使命感」は増長、赤堀の探索を地道に継続、28年後にこちら伊勢の地で本望を遂げたというものです。

 

昔から仇討、敵討ちは我が国では美談として扱われますが、いわゆるそれは「やられたらやり返す」の思想で、「目には目を」ですね。

根本的にその怒りのチェーンリアクションはとても私の知ってる「イスラミック」。

一昔前の日本人はそれを讃え、今皆が残虐非道と言っているようなことは100年くらい前までは普通にしていたことでした。

 

もっとも江戸時代の敵討ちは「許可制」。奉行所管理により「統制のとれた」ものであったわけです。たとえば許可は父母兄弟が殺された場合のみであり、また仇討を達成した相手に対しての「重敵討」などは禁止されていましたので、許可を受けず、上記以外で相手を討ち果たした場合は「ただの殺人」として罰せられました。

 

決して今のその手のテロリズムを擁護するものではありません。現在中東方面、アフガン、パキスタンでの「自爆テロ」は毎日のように耳にします。

その残虐性と非人道性を私たちは口汚く罵りますが、戦時中の特攻機や人間魚雷は我が国が初めて行った超人命軽視の暴挙でしたね。今の彼らがそれを模倣していないとは言い切れないのでは?

とにかく私は仏の教え通り、「殺すな」「怒るな」というばかり、我が心の「さるべき業縁」についてケアしなくてはなりません。


ちなみに日本書紀によれば歴史上我が国初の仇討事件は眉輪王(まよわのおおきみ)によるもの。皇族でした。