墓参りとしての建仁寺  安国寺恵瓊首塚

昨日夕方のローカルニュースに沼津東熊堂 高尾山古墳についてさらっと報道されていました。

以前記しましたように、「古墳を壊して道路を作る」という沼津の市長さんの決断に各方面から大ブーイングが起こって保存運動が起こっているというところです。日本考古学協会の学者など文化知識人を一斉に旗を揚げてその方向(沼津市の判断―壊す)に反対表明をしました。今では市民の90%が「保存」を支持するようになったとのこと。

沼津の一地域の問題が日本の歴史文化の保存というレベルに発展しました。

 

ニュースによれば、古墳の西側に道路造成計画を変更するということで収まりそうということ。あとは市長判断となるそうですから、ほぼ保存が決まったといってもイイかも知れません。

市長が、まさかこの時点で当初の「壊し」方向にまとめるとは思えませんし・・・。

とりあえず「良かった」と安堵しているところです。

市民レベルから声をあげて学者・専門家を巻き込んでの方向転換ですので、何事も「声を上げてみる」ものだと感心しているところです。

 

さて、多くの文化財が居並ぶ京都の「祇園」東山界隈で1コインで楽しめる建仁寺についての記述は昨日と続けて3回目になります。

当ブログは観光スポットにポイントを置いたものではありませんが、こちらのお寺はそれだけではありませんね。

何といっても栄西開山のお寺ですから栄西の墓が当然にこちらにあります。

 

昨日記しました「茶碑」後方にある「開山堂」がそれです。

画像①「桜門」の奥がその寺域(旧塔頭寺院)、「開山塔」となりますが、さすがにこちらから奥は拝観不可になっています。

 

ということで墓場放浪のポイントは、こちらの「1コイン」エリアにある安国寺恵瓊の首塚です。方丈の中庭にあります。

かつてこちらを訪れた方でそのお墓に気づかれなかった方もいらしたかと思いますが、おそらく途中のトイレの手前の下駄箱に気づかれなかったのかと思います。

下駄箱の設置は「靴を脱いで履き替えて・・・庭の先をお楽しみください」の「親切」の意があることを感じ取らなくてはなりません。

 

さあ、石塔の形態は無縫塔。この卵型の石塔といえば古今東西「坊さんの墓」のカタチですね。一石を削って作りますから境目が出ない(縫い目の無い)石塔となります。

 

私の場合、いろいろな墓場を見て歩きますが、目標の墓石の探索はこの「無縫塔の近く」をまず考えます。寺に関わる重要人物の墓ともなれば、歴代住職の墓(墓地の中心)近くにあることが多いからなのですが、ただしどちらに行っても私はこの「無縫塔」に関してはただのランドマーク的存在で終わってしまいます。

例外的に太原雪斎(こちらまたはこちら)の墓などは注目してカメラに収めますが・・・。

 

安国寺恵瓊はご存知関ケ原の際に、毛利方を三成サイドに引き込んで毛利家衰退と西軍敗北の因となった人と決めつけては少々気の毒ですが、「メッセージボーイ」として暗躍したなか、秀吉によってその手腕交渉力を買ってもらい、大名に匹敵するような身にまで引き上げられたという恩義を重んじた「律儀の人」かも知れません。

戦後洛中潜伏のところを捕縛されて六条河原にて斬首、市中晒されています。

 

恵瓊は元は雪斎と同様に臨済系の僧。

ともに武門の家の出身で若いうちから出家して寺に入っている点は共通。今川義元の雪斎がそうであったように秀吉も自らのブレーンの如く恵瓊を近くに置いたのでしょう。

 

そういうこと(秀吉の権威の下)で、恵瓊は自分の元居た寺、安芸の安国寺や京都東福寺、南禅寺や建仁寺の「有徳なる人」となって寄贈を重ねていたといいます。スポンサーですね。

建仁寺側として、恵瓊の首を引き取って、手厚く埋葬したというのがこちらの墓碑。

 

あとの画像は恵瓊墓石裏にある「東陽坊(とうようぼう)」。

秀吉が天正十五年(1587)北野天満宮境内で催した北野大茶会に顔を並べていた利休の弟子の長盛(ちょうせい 真如堂東陽坊住職)の「長盛好み」と呼ばれる茶室。

真如堂から建仁寺に移築されています。

 

最後の画像が霊照堂。納骨堂のようですが、堂の周辺の紅葉は隠れた名所になっているとのこと。