安国寺恵瓊吉川家文書 信長の評価 自身の末期は

静岡県小山町の新町長さんが総務省に陳情に行ったといいます。

総務省は4つの市町自治体に対して「ルール違反」を理由に次回から「ふるさと納税」のシステムから外すと発表していますが、市長さんは「このまま継続させてください」の陳情に東京に赴いたそう。

その「ルール違反」とは寄付額40%のアマゾンギフトを返礼品に入れて250億円を「荒稼ぎ」していたとのこと。

 

私どももその「ふるさと~」には多少なりとも関わってきていましたが、はっきり言ってその「返礼品」の登場には唖然としましたね。

おカネを集めるに「形振り構わない」を感じました。

 

その納税がないと「学校福祉の財源を見直さなくてはならない」などと虫の良さそうなお話をされていましたが、あれらの件は他の「地場」返礼品の開発や運営システムに「少しでも」の思いで頭を悩ませていた自治体、個々の出品提案者からすれば大変迷惑な話。

「ごめんなさい 次から真面目にやります」で済むことではありませんね。

だいたいルールを破って稼いだそのおカネ、そのままポケットに入れっぱなしなのでしょう? 

相当なズルなお話ではないのでは・・・と思うのが傍観者の意見。

 

当地にいたっては現在4月中旬以降これから新茶の季節に入るというのにも関わらず新システム移行と審査厳密の体制構築の煩雑に完全にストップさせられています。

何しろ新体制申請は面倒なことばかりで私の怠慢もあって一旦は期限切れとなったところでした。

私はこの際「どうでもいい」と投げやりになっていましたが婦人部で市役所担当と交渉していただき、6月までの書面提出でOKとなったとのこと。

 

この件、「地場」にこだわってコツコツと継続していた全国の「ふるさと納税」に関わった皆さんも同様に考えているのではないでしょうか。

ああめんどくさい・・・。余計な仕事でクサクサしていますよ。

 

さて、表記「安国寺恵瓊吉川家文書」について。

臨済宗の僧、恵瓊の出自は安芸武田家で毛利元就に武田家が滅ぼされてから出家したのですが、僧として毛利家と親交を重ねて、毛利家の外交外務の顔として山陽道を畿内を行き来して各方面に顔を売るようになった人です。

 

浅井朝倉を滅ぼし、将軍義昭をも京都から追い出した余裕の信長は義昭に「京都に帰ってきてもいいよ」と帰還を促します。

本願寺顕如さんの後ろ盾で河内、堺を転々としていたのでした。

信長にとっては本願寺が弱体将軍といえども足利幕府の看板ともいえる義昭を取り込んでその幕府再興などいう旗を立てられるなどは方向としては少々マズいところ。

何とか手打ちにして以前のように手中に収めておきたいというところでしょうね。

 

ところが、「もはや信長の傀儡はいやだ」の義昭のプライドがその提案交渉を受け入れがたくしたのでしょう、義昭はその「京都にどうぞ」の提案を蹴飛ばして「安芸(毛利)へ」の意向を強めます。

それは「信長を懲らしめられるのは毛利」の発想ですね。

 

しかしながらこの件は毛利側にとっては本願寺に兵糧を入れるという「寺への寄進」というスタンスはあったものの将軍を迎えるということは幕府開幕(天下に号令)に繋がることでもあって明らかな「露骨な反信長」です。

ということでそのような大胆な意思表示はしたくなかったというのが毛利の本音。

 

よって何とか「それだけ(安芸下向)は留めて欲しい」と義昭説得工作に派遣されたのが安国寺恵瓊でした。

結果的に義昭の強い意志によって京都帰還はなりませんでしたが(③人質の出す出さないの件で折り合いがつかなかった・・・)、この恵瓊の毛利家への「報告書」のようなものがこの記述でした。

 

文中「日乗」は信長の代理人として外渉を受けていた僧で、その恵瓊が説得をした義昭に信長、秀吉と同座していた人物です。

その初めて見た、自身同様の立場の如く怪僧の存在に驚きつつ信長と秀吉のそれぞれの印象について記しています。

 

この件がいわゆる「安国寺恵瓊の先見秀たるもの」を囃すところですが、その信長・秀吉についての記述が⑥の最後。

 

「信長の代五年三年は持たるべく候、明年あたりは公家などに成らるべく候かと見及び申候、左候て後 高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとては(覇)の者にて候」とズバリ予想が大当たり。

 

信長の調子づいたところを冷静に分析しているのでしょうね。「公家などに~」とあるようそのイメージが溢れ出ていたのでしょう。そしてまた秀吉については「覇の者」と。

占い師・予言師であれば大層な客が付きそうとは思いますが、その段階でその二人には一種独特の「何か」が表に出ていたということかも知れません。

 

ただし安国寺恵瓊(→建仁寺首塚)はその秀吉に重用されたのち石田三成と昵懇となって関ケ原では西軍。

惜しいかな家康の力量と自身の六条河原斬首とさらし首については予言できなかったようです。

恵瓊は関ケ原から京都に潜伏していましたが、一時はその頃秀吉の手で京都に移設されていた本願寺(現在の西本願寺)にも隠れていたといいます。

 

かつて足利義昭を「お荷物」扱いしての下向阻止の説得工作に赴いた恵瓊でしたが、本願寺にとっては恵瓊の滞留は「お荷物」だったでしょう。御時節がら彼を匿おうという場所はどこも無かったはず。

本願寺を自ら出たところを捕縛されたと聞きます。