「keep tower」天守閣 河毛惣左衛門の墓

「keep」の語源は「見守る」だそうです。

そちらから保持、維持等の動的な言語に派生し名詞の「城」へと変化したのでしょうか。

変化といってもそちらの事情は脳内不自由の私の様、よくはわかりませんし「城」といえば「keep」より 「castle」の方がお馴染みですから。


しかし「keep」(キープ)は日常的に色々な場面に出てくる語でむしろこの単語の方が親しみはあります。

そこで私が思いついた造語「keep the keep」で「一所懸命」いかがでしょう。「わが砦を守れ」です。

城というと大層な意味になりますが「家」と解すれば庶民的。政治家さんたちにありがちな保身のスタンスでもありますが。

 

昨日は主(あるじ)が子飼いのネコ共を自由に配して遊空間を提供させている様子を記しましたが、「見守る」という姿は将に「城」=「keep」ですね

 

その興国寺城の標識の「天守台石垣」との紹介は見る人にとって「親切」と思いましたが、例によってケチを付けさせていただくと、それっていつの時代の言葉だろう?という疑問が沸き起こってしまったのです。


この「天守」という語によってそちらが本丸あるいは本曲輪であったことがまずはわかります。 

城址を訪れてその規模を知るにどこが城の中心(本曲輪)であったかを確認することは重大事項ですからね。

まず比高の高い場所が推されるところですが、100%そうとも限りませんし、自分の視覚の外にまだ縄張りが続いているということも考えられますので。

また本丸を中心に派生的に外郭が作られ、その本郭を守るべくしてそれらは構成されますので、城郭の形を知るうえでの場所の確定は一大事なのです。

 

しかしこの城は今川・北条時代の起源をウリにしているいうこともあって、その語「天守」という案内には少々違和感が残りました。まぁそれでイイといったらそれでイイのでしょうが・・・。

よくそれぞれの城の地元の方たちが言う「天守閣なんて無いよ」(見るべき価値がない)という言葉がありますが(毎度苦笑させらています)、そもそも「天守閣」などという語は最近になってからの言葉ですね(明治以降)。そして何より「天守」の概念は信長の岐阜城以降といいますし。

 

ともあれ、その本曲輪の建物(二棟だったのかそのベース上部で連結されていたか・・・)からは駿河湾の行方と浮島原の民を一望にし、天気が良ければ伊豆半島からも遠望できた台地上ステージの如くあったと思います。

 

「天守十徳」なる語が現われたのは江戸期 になります。そちらには天守を置くことの意義が連ねられています。それをざっと見回せば「高い場所にあれば当然のこと」だろうと思う事ばかり。

ざっとググっていただければと思いますが、それらは殆ど城内から見た「利益」です。ただし一つ外部から見た効果について記しています。それが「城の装飾」、要は見た目を意識するものですね。

 

敵方が城を包囲した際、チンケな掘っ立て小屋が建っていたとしたらいかにも弱そうで手掛けやすく感じ、また眼前にきらびやかで豪華にそびえ立ってその威容を誇れば、威圧感もタップリで戦意喪失、人を寄せつけません。

そういった感覚の天守、いや天主が信長の安土城だったのでした。

それ以降天守の豪華さを競う合うように本格的に建てられたのが江戸期からです。一国一城令が発せられて資金を集中しやすくなったことも一因でしょう。

 

天守の「見た目」、視覚効果を十二分に生かした極端な例は秀吉の石垣山一夜城です。「遠目だからわからねぇだろう」と城壁はお絵かき程度、小田原方向のみを意識した張り子の城だったようですから。

遠方からの見た目、私の感じる天守の第一の効果です。他の効果は「見張り台」の延長ですね。

 

画像は河毛惣左衛門尉重次の墓。

駿府から家康が江戸に移ったあとは駿府には中村一氏が入りますが、興国寺城には当家配下の河毛一統が入っています(天正十八~慶長六 1590~1601)。

河毛氏といえば近江長浜、北陸本線に河毛駅がありますが、あの虎御前山の目の前。元は京極系で浅井氏の配下にあった系です。その「河毛」は浅井家滅亡ののち秀吉配下になっていますが興国寺の「河毛」詳細経路は不明です。

 

11年の興国寺の河毛の治世、河毛家は菩提寺に城の別郭であったと推測される西側の谷を越えた丘陵上の「興国山本法寺」を菩提寺としました。。

こちらは河毛家の11年間のうち重次他亡くなった者の墓でしょう。

墓域は以前の様子から一変しているようで、特に看板の文字が殆ど判読不可。更新メンテはされていませんでした。

私ども同類のマナーが「なっていない」ということが推測されます。

 

こちらの「天守」と呼ばれる建造物が興国寺城に建てられたのはその中村家の時代でしょう。

まぁあの案内板を記すにあたって、何となく、「そう記せばわかりやすいだろう」くらいの気持ちだったと思います。

 

こちらの丘陵は宅地化されていますので判りにくいのですが、城の西側の出曲輪的要害があったことは推測できるところです。

①と②は城址本丸付近。⑧が西側からの興国寺城外観。

 

 

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    三橋 利之 (日曜日, 12 3月 2017 10:56)

    河毛重次は主君中村忠一とともに鳥取に行き、松崎を拝領します、その地に浄土宗”西向寺”を菩提寺として建立します。本法寺の河毛重次の命日は慶長8年4月8日ですが、重次は慶長18年10月13日まで生きています、西向寺は連門精舎旧詞、重次の件は徳川実記で調べてみてください河毛備後守として記載されています。この件につきまして沼津市教育委員会に質問状を出しました。河毛重次と松崎の河毛備後守が同一人物か確認できないとの返事でしたが私は同
    一人物と思っております、興味が湧いたら調べてみてください、解ったなら教えてください。
    〒410-0309  沼津市根古屋566  ☎090-3951-6407

  • #2

    今井一光 (日曜日, 12 3月 2017 22:59)

    ありがとうございます。
    河毛重次の詳細についてありがとうございます。
    また調べてみたいところでが、「鳥取」についてはゆくゆくの宿題とさせてください。
    どうぞまたご指導いただきたくよろしくお願いいたします。