無慈悲な改易 お世継ぎの有無 中村家

すこしばかり前の大河ドラマ(2006年)に「功名が辻」がありました。

昭和30年代後半、司馬遼太郎原作でいわゆる《山内一豊の妻》という戦国の良妻賢母の「千代」とその夫、「一豊」の出世話で、「一国一城の主」という言葉を流行らせた同名の小説「功名が辻」が大元です。

 

 語り草とも言っていい時代考証は未だに記憶に新しいところです。

この歴史的「歴史の新解釈」は女性脚本家の強硬な主張によってなされたといいますね。

いわゆる史料に無い「本能寺」、信長が鉄砲をぶっ放しての奮戦シーンです。NHKはその脚本家の論「鉄砲を使っていないという証拠が無い」ということと何より信長役が「舘ひろしだから」という意味不明な理由により「まっいいか」とばかりのチャレンジだったとのこと。

「えっ・・西部警察・・?」

 

番組放映時は山内一豊の掛川城が賑やかでしたね。

たくさんの観光客で溢れ返っていました。現在の掛川城周辺とは比べものにならないほどの人並でしたね。

そういう意味では「大河ドラマ」は強烈なインパクトがあります。

 秀吉の小田原攻め(関東平定)のあと山内一豊は掛川城に入り、同じ釜の飯を食べた昵懇の仲、駿河城に入った中村一氏とともに大井川のはんらん対策に協力してあたっています。

 

 山内と中村は信長~秀吉~家康の時代を互いに切磋琢磨して歴史上偶然にしろ大きな選択の見誤りも無く戦国を生きぬいて来ました。しかし後世「家」というもので考えれば結果は雲泥の差として現れます。

山内一豊と千代の間には与祢(よね)という娘がありましたが近江長浜城主となった頃、「天正大地震」で城が全壊し、6歳で命を落としています。地震による無常なる災い、今の私たちにとってとても身近でまた気の毒に感じてしまいますね。

 

 一豊夫婦は世継ぎが居ない中、一人娘に婿を取るということもできなくなりますが、実弟の山内康豊の息子である山内忠義を養子として受け入れます。一豊の関ヶ原での東軍としての働きが評価され掛川から加増転封した土佐にて繁栄し山内家は幕末を迎えます。その後幕末時の山内家と土佐藩の暗躍は討幕につながって行くことになりました。

 

 ところが中村一氏は「関ヶ原」の際、駿河に居て病床に伏していて、その戦いの直前に亡くなってしまいます。

勿論、東軍として家康に従った中村家は弟の中村一栄や嫡子で11歳の一忠を参加させました。

その戦働きの戦功として伯耆米子城17万5,000石を与えられますが叔父の一栄は関ヶ原の4年後に亡くなり、若すぎる殿さまに取り付く家臣たちのゴタゴタにより家康の介入を受けて家臣団を処断されるなどしたのち20歳で亡くなってしまいます。

当主の急逝により跡継ぎの幕府への申告の無かった中村家は無情にも改易されてしまいました。

 

「世継ぎ有無」に関しての幕府の厳密さが一層厳しさを増し、改易ラッシュ、戦々恐々の時代でした。

 

画像は昨日の続き、臨済寺墓所、中村一氏の墓。

臨済寺伽藍のスグ西側から、臨済寺堂宇と静岡南東方向。

こちらも今川家墓所内にあります。

五輪塔は欠損していて「地」と「水」が新しい物に代わっています。

一見トップの「空」の上にさらに宝珠形がのっていて「六輪」になってしまいます。上から2つ目か3つ目が余計なものかと思いますが・・・。

五輪塔ではよくあることですが、地震や崖崩れなどで崩落することも多くあり、そのバラバラになった諸パーツを組立てる時、結構いい加減に積み上げることがあってそのまま時代が引き継いでいくということが多々みうけられます。しかし本当の所は不明です。特にこのお墓は「丁寧さ」を心掛けたのか最下段の下にさらに台座がありますので今風の台座まで設けた「七輪」のようにも見えてしまいます

やはり五輪塔は「五輪」でしょう。