吉田城対岸の地  下地町と牧野古白の墓 龍拈寺

昨日に続いて吉田城対岸の地(→9/15)。

電柱の表札「下地町字神田」の「神田」が「からだ」の示唆であるとはは無理があるかも・・・とは思うものの、実はこの「下地」は合戦場でした。


下地」についても「地頭方」や「領家方」等の呼名の元「下地中分」の通り、中世的臭いのする地名でもあります。


享禄二年(1529)以降、西三河を統一した岡崎の松平清康(家康の祖父)が東三河の侵食に出て今橋城(吉田城)を落していますがその本戦場がこの豊川を背にした下地でした(下地合戦)。

この戦いで牧野古白の子牧野信成他兄弟等討死し牧野惣領家(今橋城牧野家)は滅亡します。

よって昨日、「その子孫はどれも栄えて、多様な系統」と記しましたがこれはこの戦いから逃れた牧野信成の妻が産んだ子供だったり地元に残った牧野古白の兄弟あるいは歴史上現れてこない子供そして別流の者の某が「牧野」を名のったということです。


元地元領主の名を名のれば当然に新領主は着目します。

直接の怨恨関係が無かったりすれば新領主はその者を引き立てることによって、地元民から「旧来同様の政」であると安堵させることができますね。

特に家康なども顕著ですが、当地に於いて鎌倉期御家人時代から発展し室町期を通して国人領主として宝飯郡を治めた家名は捨てるには惜しかったのではないでしょうか。当時としては「牧野」といえば一目を置かれるような家名だったと思います。


ただし牧野家は守護の権力抗争、東三河の有力国人割拠の時代と今川の領地浸潤による配下としての存続、松平の侵攻という戦乱時代を通過していることもあって、出世存亡のサイクルが目まぐるしくそれぞれの正確な時代、人物等の特定が難しいところがあるようです。


とにかく今橋城といえば牧野古白

(ブログ 15.8/8 14.7/25 13.8/25 13.8/24)築城の城で東の今川氏親らに攻めたてられて討死、古白亡き後息子の牧野信成が巻き返して今橋城主とあったところに西から松平清康が攻め込んできたのでした。


息子が父の古白の菩提を弔うために建てた寺が先日お知らせした吉田山龍拈寺でした。

空襲の為か古白の墓碑は新しめです。よって昨日の石碑同様「新しいから」といってその信憑性について疑うことはいけませんね。


こちらのお寺には家康のお婆さんで清康婦人の華陽院の肖像画があります(掲示板)。この人が幼少の人質家康の駿府に付いて身の回りの世話をしたようです。

右側の女性が伝「牧野古白母堂画像」。