土地とその果実本位の風 「下地」こそ大義

土地バブルなどいう言葉が大流行りして久しいですが、これら日本人のDNAに刻み込まれた土地神話の下地はそもそも荘園時代から始まって鎌倉御家人の「一所懸命」に広がりを見せます。

その後の武家政権支配者は家臣の手柄に褒美としてその切り取った「土地」を分け与え、家臣団と国の構成と安定を図りました。そして日本国内を統一してもはや日本にその「下地」が無いというところから朝鮮半島から大陸にその矛先を向けたというのが秀吉の「無慮の老獪」、文禄・慶長の役で、その大失策を忘れて今一度アジア諸国に軍靴を踏み入れたのが昭和の15年戦争でした。


土地とそれにまつわる果実(収穫・石油等資源・港湾)がそもそも狭量で限界が見えている国に住まうそれら陣取り合戦好きの日本人は行き詰まると外に方向性を求めるという傾向があるのです。そこのところをあの蘇峰は「秀吉になったらダメ」と言ったのだと思いますね。

 

さて、「下地」とは・・・ 

まず化粧品などの宣伝で「お肌の下地」風な言い回しをよく耳にしますがこの「お肌」は勿論譬えですね。

やはり日本史の中で「下地」といえば、読んで字の如く「土地」そのもののこと。

敢えて「下」を付けるのは上物との対比。

現在「土地」に対する上物といえば建屋のことをいいますが、この「上」とは大雑把に言って、「上分」=年貢や税のこと。

よって「下地」とは荘園期における支配地(領地)ということになります。

 

一見日本史上の土地について理解しにくく感じるのはその同じ土地に①資産・財産として保有する「名目上の所有者」が居て尚且つ、②現領地として所有する者が居たということです。

 

それは並立していたわけではなく簡単に記せば①は寺社公家等の荘園領主―複雑で簡単には記せないということと、時代によってまた権利の主張が複雑化しますが、一応は「本家」(大寺社・摂関家・皇家)、「本所」、「領家」(開発領主から寄進を受けた荘園領主)―です。まぁ一言で言って中央の有力権威者です。

寄進とは②の開発領主の防衛手段。背後の強大勢力のお墨付きをもらうことですね。税をあげることでその保障とします。

寄進しないでいると国衙の国司(地方に下った下級貴族―国家公務員) 四等官―「守 (長官 かみ)「介 (次官 すけ)」「掾 (判官 じょう)」「目 (主典 さかん)らに「押領」されかねないからでした。

 

「領家」は、寄進を受けた開発領主を現地管理者として「荘官」として任命するというのが大体の流れです。

よって一つの土地に複数の「支配者」(名目と実地)が居たということになります。

鎌倉時代まで進むと現地管理の「官」が武士化していきますね。そうなると公家・寺社からの手から徐々に離れて独立性を目指すようになり、荘官の任命(地頭)も幕府からというのが時代の流れでした。

公家・寺社が現地管理を現場任せにして中央で左団扇でいられる時代は終焉を迎えたわけです。

 

室町期になると幕府が任命する「守護」が直接に荘園からの年貢徴収を認められた「半済」が行われて「領家」の地位はなし崩し的になります。租税が届きにくくなって中央貴族が困窮していった要因でもあります。


室町時代中期以降の「下地」はこれまでの地頭職が国人化し、新田開発により力を得た有力百姓や国人庶子たちが土豪化してそれを「守護」が再編成していったのが戦国時代の幕開けでした。

その再編成を「守護大名が戦国大名と化した」ということでしょう。

また、色々なバリエーションがありますが「守護」を無視して「守護代」以下が戦国大名となったり、家臣が主家を謀反によって葬り君臨することを「下剋上」というわけです。

 

以前、松田の「惣領と庶子」(またはこちら)という地名について記したことがありましたがそれらの名残が遠州各地に残っています。こういう場所を通るとき、歴史というものが今も残っていることを深く感じます。

 

掛川市の「領家」という地名(小笠山の曽我山砦付近)もこの近辺ではよく聞く名称ですし、浜松の駅南、R150渋滞の名所、掛塚橋から大浜通りに入ってしばらく、こちらにも「領家」(画像①②)があります(場所はここ)。

また菊川には「半済」「本所」(画像③)という地名が隣り合わせにありますが、私は相良から菊川方面に行くときはまずこちらの道を通ります。地名掲示板にいちいち感動しながら、想いを巡らしながら、通過しています。ちなみに画像③地図の上方、「西方」という地名がありますが、成瀬藤蔵が勒さんと当初出奔してきた場所です。

日本全国にそのような古色豊かな地名が残っていると思いますが、まずはこういった地名は、荘園時代以降「下地」の権利関係からの「通称」の名残だったことは一目瞭然です。