家康時代の浜松城? 石積みと堀  現説は22日(土)

浜松市の歴史調査への方向性がハッキリしているのはやはり天下取り家康がその躍進期にこの地に居たということが大きいですね。今年は例の「400年」ということで浜松を歩けばそれを盛り上げるための幟等多く見かけます。静岡よりもその傾向は「強いのかな」という印象です。

 

浜松の強みはまだまだ「新しい発見」があるということです。

今度も現在の城の直下の舗装された壁面を剥がして発掘調査をしていますが、家康の時代の石垣が出現しています。

その石垣の前を試掘すれば出てきたのは堀の形跡。

予想通りというかあの場所を掘ればさすがに何か出て来そうな場所ではあります。

 

考えてみれば発掘調査ほどおカネのかかるものは無いですね。すでに上にあるものを壊して(その前に権利関係の了承必須)時間をかけて緻密な調査をし、保存埋め戻しでしたら原状回復し、公開するのでしたら土地の取得とこれから将来にかけての維持管理の経費を考えなくてはなりません。

いずれにせよこの地は浜松市役所内だと思いますから、土地の「権利」についてはまったく「問題なし」だったでしょうが。

 

ここで一言付け加えておかなくてはならないのですが、私たち静岡人だけでなく戦国時代に詳しくない人からちょっとした戦国通でも「浜松城=家康の城」というところ、ほぼ間違いないところで、だいたいはその線でいいのではありますが、それはかなり大雑把な捉え方ではあります。

以前記しました通り浜松城の前身の曳馬城(他にこちら)が家康の接収した当初の浜松城であって、現在地の天守・石垣のスタートはまずは堀尾吉晴です。堀に関しては曳馬以後堀尾が入るまでの家康の縄張りだったようですが、時代が接近していますので確定的ではありません。今後まだまだ掘れる場所と計画がありますので楽しみです。

 

堀尾吉晴は尾張出身、織田家傍流から信長配下秀吉の下、頭角を表していった人です。豊臣秀次付の宿老でしたが、秀吉の錯乱当時1595(秀次事件)この浜松城十二万石に居たため難を逃れています(在城1590-1599)。彼は秀吉亡き後は家康派、「関ヶ原」は東軍。

 

その浜松時代に着手したのが城の拡張整備。現在の浜松城の元となります。

堀尾吉晴は10年のうちに領国内の二俣城や鳥羽山城の縄張り造成も着手していますが、転封が多くまた、戦乱期を秀吉とともに従軍していますのでその関わった城も多く、彼の名は各地の城に登場します。先般国宝に指定された松江城なども当初堀尾家の手になります。

 

野面積みの石積みは見事です。石は三ヶ日から天竜と近場からのものだそうです。大小均等でない扁平の白と錆色の石を積んだ城壁は明るく遠方からも映えるように浮き上がって城を引き立てたでしょう。

 

堀は当初の家康時代の空堀(基本空堀でたまたま雨水が溜まれば水堀)だったようで、堀尾吉晴が入ってから人為的に埋め戻したといわれる堆積層が出てきています。その中に一緒に放り込まれたガラ土の中にカワラケや陶器破片等発掘の期待があるのですが、今回も堀の試掘孔からそれらが出てきています。

 

現地は浜松市役所のまっ隣。平日であればまずカンタンに市役所の駐車場に停めることができます。時間制のコインパーキング化していますが、庁舎利用の方は2H無料。

私は部外者ですので3階の文化財課へ出向きます。

こちらに並べられている書籍を見繕って購入しハンコを押してもらいました。

書籍といっても200~300円程度ですから、駐車料金とチャラです。ゆっくり遊んだら2Hでは済みませんが。

最後の画像が庁舎内ガラス越しに見た現地。

こちら庁舎から道を隔てて4~5分と遠くない場所に曳馬城址(場所は上記曳馬城リンク先に)がありますので、車はそのままで散策してみるのも良し、堀のスグ隣の美術館も良し、二の丸からの散策も良しですね。勿論お城の内部の資料館も。

 

 

22日(土)には午前と午後の2回、現地説明会があります(こちら)。

 

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コメント: 1
  • #1

    Wendie Flore (金曜日, 03 2月 2017 08:43)


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