浜松城(引馬城 曳馬城)地名は「曳馬」 

家康の出世の城と誰でも耳に馴染んだ「浜松城」。

ビジュアル的にも現市役所裏に凛々しくそびえるあの天守と石垣は壮観で、当初の家康が入ったそれとは名前も違って場所も微妙に外れた位置にあったということはなかなか知られぬお話。

 後世物語されるこちらの城を「浜松城」と「細かい事をいわずに・・・」とばかりに記すものも少なからずあります。

先日一部転記した「高天神城実戦記」などもすべて「浜松城」で記されていましたが、厳格に「浜松城」と命名される以前のこの地にあった城を「引馬城」や「曳馬城」と記しているものの方が多数ですね。

 「引馬・曳馬」は遠州の三方が原台地等をも含んだ広い地域の名称で今でも浜松には「曳馬」という地名(今の場所は中区、この辺り)がありますので地元の方々には耳慣れた名です。

 

 せっかく築城開始しだした見付の「城之崎城」を放棄した理由は①天竜川の背水と②信長後詰の不利など、地の利の悪さでした。よって本格的に遠州の基盤とするために入ったのが今一度天竜を渡った「曳馬」の地でした。

曳馬には今川時代からの曳馬城があって、元亀元年(1570)に入場したのがこちらのお城だったわけです。

 実質丸二年後(元亀三年)の三方が原戦までに現浜松城が完成できる筈も無く、「浜松城の城門を開け放って・・篝火を焚き太鼓を打ち鳴らし」の段、こちらのお城であったことは確実でしょう。

 

 ちなみに家康がこの「ひくま」という地名からとった城の名を嫌ってこれも古くからある「浜松」という地名を採用した理由は「縁起が悪いから」という理由だったそうです。

のちのち豊臣家に一戦交えるための口実として方広寺の「国家安康」の文言に因縁を付けたことも思い出しますが(こちらはただの難癖?)、「引く馬」=敗戦、「引く幕」は幕引きでこれも敗戦のイメージ、「気分悪い」と感じたのでしょう。

 

画像は曳馬城跡、現東照宮(場所はここ)。

「東照宮」だけに葵の御紋が。周囲の道との高低差がかつての郭、土塁を推測させます。