この件が無ければ豊臣家は安泰だったかも

近江八幡城に入った豊臣秀次は、秀吉の姉さんの「とも」(日秀)の子で羽柴を名のる前は三好康長に養子入りしていました。

トントン拍子に秀吉が天下人として君臨していき「我が世の春」を感じつつ齢を重ねる中に、天正十九年(1591)早春にキレ者の弟秀長が亡くなり、同年夏には秀吉の嫡男の鶴松が数え3歳で夭逝、我が身に後継者がいないことを「ふと気が付いた」かどうかは判りませんが、スグに秀次を養子としてその年には関白としています。

 秀吉の「老衰による狂人化凶行」のきっかけは文禄二年(1593)に淀殿との子、秀頼の誕生からです。

関白移譲を地団太踏んで悔しがった秀吉の姿は想像に難くありません。通説石田治部(三成)の画策謀略があったといいますが、秀次は秀頼誕生から二年後(1595)に関白剥奪のうえ高野山に追放されて出家、その一週間後に切腹させられています。

秀吉の秀次に対するその凝縮されたような(秀頼誕生からの2年間)一方的恨みつらみへの過度な正当性の主張なのか、ただの御老体の権力ボケなのか、史上稀にみる非道を尽くしたことは周知のこと。

 この事件が却って豊臣の滅亡と徳川家の安泰を確かなものとしたことは紛れもない事実であり当人の意に反した結末を招いた皮肉でもあります。

また全ての者に不信感を募らせる秀吉の仕業でした。

人間の嫌悪すべき最たるものを見せつけられた気持ちになります。

 

「慈舟山瑞泉寺(京都三条大橋西端)縁起」抜粋

 

~秀次公の一族、すなわち4人の男子と1人の姫、側室34人は盛夏の熱気去りやらぬ三条河原の刑場に次々と引き出され、刺されあるいは首を討たれて命を奪われた。

 

 自刃した秀次公の首はその日の刑場の土壇の上に西向きに据え置かれていた。

早朝より死装束の女子供たち、母君の胸に抱かれた若君や姫君とともに牛車に乗せられ、市中引き廻しのあと、三条河原刑場に運ばれた。やがて主君の御首と涙の対面をはたした合計39人の御一族は一人一人殺されていった。

 戦国の世には主君に命を捧げて死んでいった子女は多いが、このように戦いにもならず無念の最期をとげた罪なき一族の運命は他に例を見ない。いわんや犬の子をさげるようにして刺殺されたという可憐な5人の関白家の公達と姫君にいたっては、見物につめかけた京洛の町衆も「臓を裂き、魂を痛ましめずということなし」と寺の縁起に書き伝えている。

 全ての遺骸は刑場に掘られた大穴に投げ込まれ、跡には四角推の塚が築かれた。その塚の頂上に秀次公の御首を納めた「石びつ」を据え、三条大橋を渡る人々への見せしめとした。

寺伝によれば現在の瑞泉寺(場所はここ)の本堂はその塚の位置に建立されており、当時の「石の首びつ」は境内にある現在の墓域に移されて、今は石塔の中央部に泰案されている。

 

このお寺の位置は古くから三条河原の中州で、近江の医師出身、「土倉」(金融業)で身を立てた豪商、角倉了以が高瀬川の削岸工事中に偶然に発見した「秀次悪逆塚文禄四七月十四日」と刻まれた石塔を元に洪水等で荒れ果てた墓域を整備して菩提を弔うために瑞泉寺を建てています。

瑞泉院寺殿は秀次の法号でこのお寺は浄土宗、本尊は阿弥陀如来です。

 

一番最後の画像が近隣高瀬川近くにある角倉了以の顕彰碑です。