どこでも良かった 原爆投下 島田でも・・・

昭和20年の広島8/6の約10日前7/26のことです。

牧之原市のお隣、台地を北に大井川を渡った川越の渡しで有名な島田宿、空襲の被害がありました。

なるほど島田にはパルプ工場はじめ大井川水源を利用する大小工場や海軍の技術研究所等の目標となりうる施設が多くあります。しかし落した爆弾は民家密集地への1発のみ。

 

これは通称「パンプキン」(1万ポンド軽筒爆弾)と呼ばれるもので長崎型(ファットマン型)の予行演習兼データ採取のための「模擬原爆」です。

模擬と言っても原爆の模擬であって普通に爆弾ですから爆発します。要はこれは米軍の原爆投下計画(マンハッタン計画)の「訓練」の一環で、「本番」のためのステップでした。

この「訓練」で殺された人たちは実は全国で死者400名、負傷者1200名が出ていたといいます。この島田への「パンプキン」の投下では49名が亡くなっています。

 

先日のブログで原爆投下の段階で「日本は死に体」と記しましたように、制空権も無くノーガード、竹やりを持った女子供は食べ物も無く、大本営の発する「日本優位の戦況」の報もイイ加減疑心暗鬼になっている頃、沖縄戦の終了する前日(6/22)に「義勇兵役法」(男子15歳、女子17歳から兵隊にとれる)という付け焼刃的に発布した法案を根拠に机上の兵力嵩上げに成功した軍部政府のみ戦争を継続続行を試みようとしていたという状況です。

実質的な戦闘能力を失ってもなお陸軍中野学校の将校を日本各地に散らして子供ゲリラ部隊を構築して戦闘維持(一億総特攻)を想定していたことには呆れかえりますが、日本は既にアメリカさんに遊ばれているレベルだったのでした。

まあ今でいう世界の紛争地域で「少年兵」なる子供たちを率いる軍隊がある国は「三流以下」ですからね、恥ずかしい歴史です。

 

本当はアメリカは原爆など落さなくてもとうに勝負はあったのでした。

「マンハッタン計画」なるものが米政府の肝煎りで進んでいる中「折角爆弾が完成したのだから落させろ」というものが本音でしょう、「戦争早期終結」は実は後付けの「大義」であったというところは見えています。

 

戦争に積極参加した「国としての咎」と言われてしまえばそれまでですが、あの原爆の投下に関してはハリウッド映画と親米の雰囲気の中で育てられたような私であっても、そこのところは大いに疑問が残ります。

なにより被災者は軍人ではなく民間人、特に子供たちですから。

「何もそこまでやらなくても・・・」と思ったところです。

 

さて、昨日島田旗指の「金剛悲地蔵」を記しましたが、地蔵というとやはり、これは門徒的な言葉ではありませんが、「ある死者に対しての踏み込んだ哀悼と追善」を思います。特に島田でのそれは私どもの住まい近隣でかつて起こった「無慈悲にも突然提供された偶然の死」を何故か連想してしまいます。

 

アメリカ軍の原爆目標は多数ピックアップされていて、当初新潟を攻撃目標にしていました。訓練弾は近隣地域がイイということで「新潟が本番で模擬弾訓練が富山」を選定していたそう。しかしたまたま7月26日の富山市上空は天候不良でした。

「実験」は爆撃手の有視界、目視というのが至上命題ですので富山は中止となって太平洋上の基地(テニアン、サイパン等)への帰還の際(帰りも富士山目標)たまたま通った島田の上空に落とされたという不運です。

 

原爆投下もそうですが、すべて実飛行の際の「適当な場所」よくいえば「臨機」が優先されますので、まさにテキトー。

人の命がこうも誰かの匙加減で左右される戦争をしてしまったことも愚かではありますが、いかに戦争が空しい死を招くのか、青い空を見上げてあらためてそのように思った次第です。

このパンプキン爆弾は「本番」(広島・長崎)後にも落されています。

 

画像は島田市内。

「パンプキン」が落とされた辺りの住宅街の公園にその碑が建っています。普門院さんの南側で、島田駅から北側直近の住宅街。工場郡は大井川左岸ですから明らかに目視攻撃の実験弾の投下は民家狙い(場所はここ)。

亡くなった方たちはそんな経緯は思いもしなかったでしょう。