牛久保城の牧野古白 豊川南に渡河 今橋城

お城の名前が複数あって、どれも結構耳にする名だけに紛らわしいのです。

牧野古白(成時―しげとき)について以前記しましたが、まさに絵に描いたような下剋上の立ち回りをした人でした。

牛久保城主として晴れてその領地を確保したのち、色々な勢力関係の中でそれを選択することになったのでしょうが、牛久保城から南、渥美半島の根元部今の豊橋市中心部に城を設けてその城主としておさまります(場所はここ)。

 

その名が今橋城です。当地の古い地名が「今橋」で、その後「吉田」に。吉田城といえば牧之原市のお隣の吉田町に小山城という名のみ先走る武田時代の砦址がありますが、この近くの人はそれを言えばまさにその砦と誤解してしまいます。

江戸期に通称「吉田」といえば三河国渥美の吉田のことですね。それをまた明治期に「豊橋」と名称変更したために、さらに「豊橋城」という名も生まれてより紛らわしくなりました。

 

時期は天文四年(1535)松平清康の森山崩れ以前、ずっと昔のこと。享禄二年(1529)頃には清康が渥美半島から東三河を統一していますが、今橋城が築城されたのはその一昔前、永正二年(1505)のことです。

牧野古白の進出の理由は、当然に自身の利害にのっとるものでありましょうが、ハッキリとはわかりません。

尾張三河は幕府の意向が絡む中、旧守護の一色系残存勢力、新守護の細川、三河を窺う今川氏親、渥美半島の戸田と松平ラインなど色々な勢力が交錯して、洛中の代理戦争(応仁の乱1467~1477以降の騒乱)としても紛争が絶えない地域でした。

特に今川氏親が三河尾張に出張って進出を窺っている時期です。

西三河の安祥城にあって松平家売出し中、勢力拡大路線にあった松平清康の祖父の松平長親(墓はこちら)の東三河進出に対する防衛ラインとして牧野古白を取り込んだというのが通説のようです。

 

牧野古白は築城の翌年の1506年、この城で討死しています。

お相手は今川と言われていますが、そうなると築城のスポンサーに討ち取られたということになりますので矛盾します。

しかしあの時代は一晩で敵味方が入れ替わることなどは珍しいことではありませんでした。

 

鉄筋コンクリートの模擬天守。最後の画像が江戸期のもの。

戦国期の当初は「城」とは言っているものの、一色城・牧野城とおなじように、運河の淵の掻き揚げに櫓程度の構造物があったくらいのものでしょう。