橋守 通圓 ごめん やっぱり牧之原茶が好き

4日は当流大谷派の本山にて得度式があったとテレビや新聞紙上を賑わしていました(たとえばこれ)。親鸞さんがお山に上った9歳という歳も驚愕です。家康の人質時代は6歳で他家(尾張→駿府)を渡り歩いたのですが、そもそも有力家臣団の惣領家嫡男で一定の位置というものがあったはずですし守役は勿論、おつきの家臣の子供たちらに傅かれての生活は最低限保障されていたでしょう。

 

しかし親鸞さんも同様に父母と別れて、比叡山での生活に入るのですが、あの地、いわば完全なる実力主義の場で頭角を表していくというのは今更ながらですが、ただ者ではないということが窺えるわけです。

 

「9歳」で得度式に参加するという習いはイイですね。

拙寺愚息もその例に準じさせていただきましたが、私の場合は大学の卒業式前の春休みでした。

ハレの卒業式での剃髪は知り合いから「なんでまた?」と不審な目で見られるのが酷く辛かったことを覚えています。

コレは親のやる気とそのスタンスの違いののでしょうが、先代はまったく先の事を考えたり、配慮して行動する事などは苦手な人でした。

 

「守役」などという仕事は今や無いですね。

まぁそれに似た言葉としては「赤子のお守(おもり)」とか「重役のお守」という言葉として残っていますが・・。

「お守」とは「世話役」の事ですね。それを専門の職種とするなど、もはやあるワケがありません。

また、昔よく耳にしたそれに似た言葉として「灯台守」という語があってそちらはまさに職種の一つでした。海洋交通の要である灯台の維持管理を灯台に常駐して行う人のことで大抵は家族で住みこむことになっていましたね。

 

いまは全自動化されて有人のそれはおそらく無くなってしまったと思いますのでもはや過去のお仕事だと思いますが、確か私の高校時代に「父親が御前崎の灯台守」という同級生が転向してきたことを覚えています。

 

さて、標記の「橋守」(はしもり)も今や死語。

意味は維持管理というよりも門番や関所の番人の如くの職種だったと思われます。ここで思い出すのが一休さんの「この橋渡るべからず」でした。

中世で神社仏閣城郭は河川や濠に囲まれていることが多く、橋は守りのキーポイントですから、そこに番人を置くことは当然だったでしょう。

 

宇治平等院は宇治川のほとり宇治橋が掛かっています。

その橋の東詰め交差点、まさに橋のたもとにある茶店「通圓」(こちらは食べログより)という店がありますが、この店はかなりの歴史がある店で、この家の初代、通圓政久が宇治川橋東に庵を結んだのが始まりといいます(場所はここ)。

橋守という名も伝わっています。その後茶店として代々に渡って人々に宇治茶を振る舞ってきたといいます。

ただしどんなにおいしい宇治茶と言われても、私は牧之原茶で育ったせい、その主観ではありますが、お茶の良し悪しについては譲る事はできません。

 

政久の「政」は源頼政から。彼に同調して兵を起こして平氏と戦って討死しています。頼政の墓の直近、鳳凰堂の将に裏手に彼と縁者の墓があります。

大挙する観光客は鳳凰堂のみにしか興味は無さそうですね。