「チャンス」「タイミング」「機縁」  源頼政

先日の岐阜方面への遠乗りは、私の運転で「墓道」氏同伴。

最初は集合時間のちょっとした遅れから「これでは岡崎の渋滞に・・・」などと彼に嫌味をぶつけながら、東名牧之原へ向かいました。

入路前の表示が無い掲示板を見て、取り敢えずの順調を推してブースを通過しようとしますが、ゲートが開きません。

すると「ETCカードの期限が切れています」とのマイクからの声。そういえば「新しいカード」というものが数週間前に届いていたことを思い出しました。

瞬間、折角のETC休日割引(30%)が台無しとなることは仕方ないと、一般走行用にカードを出してもらおうと諦めかけたところ、こういう質問が投げかけられました・・・。

 

マイクとモニターを通しての会話で、こんな気の利いた質問があるとは思いもしませんでしたので少々驚きましたね。

それは「どちらまで行かれますか?」です。

この私の失態とどう関係があるのかと、ここでもまた憮然としながら、「岐阜方面です」と応答すれば、マイクの向こうから「遠いですね・・・家にカードを取りに戻りますか?」でした。

 

「遠い」ということは高速料金は高くなるということ。

またそれに対するETCの割引率(往復)もバカにならないということですが、それはあくまでも私の懐の痛み。

 

モニターの向こうにいる見ず知らずの私に、その事を心配してくれての助言だったわけです。この親身なアドバイスに我にかえった私は直前の「墓道」への憎まれ口にもかかわらず、「ありがとうございます」と言って自宅へ戻ったのでした。

 

勿論あの場でのUターンは禁止ですので、特殊なカードを受け取ったのちその先でターン、有人のゲートにそちらを渡すという形でした。カード有効期限切れの対応もごくスムース。

こういう「おっちょこちょい」は世に私だけでは無いのだと確信しました。

 

ということでその後車内の会話は私の大チョンボによる遅延惹起の開き直りの弁。

主旨は

『宗教的にすべての事は「機縁」であって有り難く頂戴するもの。不思議な力によって意図する進行が妨げられることは、何かの縁であり、これを世の人は「タイミング」と呼ぶ。

このような場合、一見マイナス要因に思えるが、私に関して言えば、往往にしてその作用が「私に対して」ベストの方向に向かわせているのだと思うことにしているのだ。』です。

 

特に世間様ではそのタイミング(チャンスの神様)には「イイ・ワルイ」があるものと。しばしばある「タイミング激悪!!」の場面も何かのグッドタイミングに向かうための力であるのだよ、と感じるべしの達観です。「墓道」氏には「すべてグッドタイミングに導くための誘導と心得よ」と。

 

たとえば30分強の遅延を受け入れたのですが、あのまま本線に入って進行したらどこかで事故の巻き添えにでも遭遇したかもしれないでしょ?

何でもかんでもポジティブに考えましょうよとニッコリ。

 

そこから私の持論の展開。

歴史的事案、多々ありますがすべて「タイミング」というものを感じます。極論ですがそもそもどなたの人生でも案外、その何かのタイミングのズレから正反対の結果を招くということです。

正反対とは言わずも微妙なそのズレから意に反する事件に発展するなんてことはまたぞろです。

NHKの歴史番組のタイトルに「その時歴史は動いた」などというものもありましたね。そう、その「その時」のことです。

 

歴史の教科書に出てくるような「その時」というタイミングは大抵「苛烈」な結果を招きますね。

関ヶ原で「西か東」どちらに合力するかの判断などその最たるものでしたが、挙げれば枚挙にいとまがありません。

ただし、仕える者としては主家の選択に左右されますので「同じ舟」。沈むも順風も主家の選択の通り。

 

何回か前の大河ドラマ。あまり人気が盛り上がらなかった「平清盛」の含みのある役回り、源頼政を思います。

その「含み」たる彼の心中は以仁王の挙兵によって姿を現しました。清和源氏として、「武士は公家の番犬」という流れの中、平氏主体の中央政府になりつつある頃、官位「従三位」に叙せられたという特殊性と驚きから「源三位(げんさんみ)」と称せられた、摂津源氏の頂点。勿論当初は平清盛べったりの様。

その源頼政の嫡男が源仲綱ですね。

 

先日、猿の名前の件(シャーロット)で何やら揉めているというバカバカしいニュース(どうでもいい・・・としか・・・)がありましたが、源仲綱の愛馬の「木の下」を平清盛の三男の平宗盛が父の権威を笠に、無理に奪い取ってなお「仲綱」という名に変えたというエピソードがありました。

息子の馬如きの件を屈辱に思ったかどうかはわかりませんが、そののちに起こったのが以仁王の挙兵でした。

 

源頼政はその挙兵に応じて、清盛打倒の旗を掲げたのではありますが、準備不足は否めず、そのタイミングは少々早かったというのが歴史的了解ですね。彼は仲綱らとともに宇治川を防御線に籠った平等院にて自害します。

この以仁王(後白河法皇の第三皇子)の挙兵に際して行われた寺社勢力と全国源氏への平氏討伐の令旨(りょうじ)が伊豆の源頼朝の挙兵に繋がって、平氏滅亡のきっかけとなったということも紛れもない事実でした。

 

それまでの源頼政という人の「タイミング」は絶妙以外の何ものでもありません。当時、ターニングポイントとなっていた保元の乱、平治の乱という二大戦闘機会において両方とも確りと「勝ち組」を選択していたということです。

もう少し以仁王の挙兵(治承四年1180)が早まることなく秘密裏に進んで機が熟すのを待つことができれば、歴史はまた大きく変わっていたことでしょう(頼朝の出番は無かったかも)。

 

平等院は各時代、大いに戦乱に巻き込まれて、伽藍の焼失は免れませんでしたが、阿弥陀さんのおわします鳳凰堂はベストの機縁を得たか、その災難から逃れることが出来たようです。

此の地は以仁王はじめ源頼政らが立て籠もった場所で、修羅場になった場所でもありました。

平等院の鳳凰堂は観光地化してはいますが、歴とした礼拝の場を残しています。鳳凰堂の裏側になりますが、人の通りから離れた場所には古そうな墓石が並んでいます。

最後の宝篋印塔がこの寺で亡くなった源頼政のもの。

 

ちなみに岐阜行脚は小牧手前で大渋滞に遭遇。

助手席から「あの件が無ければ」とぼやきの声が漏れてきましたが、私の主張は「おかげ様で助かったのだよ、あのタイミングがあっからこそむしろこの事故当事者として巻き込まれることを回避できたのだよ」と。

そのように、少しばかり転んで痛い思いをしたとしても、「もしかして最悪のタイミングをズラした大切な調整だった」と捉えれば、まったくもってOK!OK!なのでした。

まぁ「+」でも「-」でも大なり小なりすべてを受け入れることしかありませんから。