六条河原院は渉成園に  河原左大臣  源融の墓

何時かのお寺のバス旅行のお昼で行った、渉成園。

枳殻(からたち)の植栽があったということで別名枳殻邸(きこくてい)と呼びますが、こちらは東本願寺(六条御殿)の飛び地。

観光バスが入れないために、あの時は烏丸通りから皆さんに歩いていただきました(場所はここ)。

この渉成園のお昼は粥膳(予約必要)のみですが、結構人気で御代わり続出でした。次回は久し振りになりますのでそちらでの昼食タイムもいいかも知れません(東本願寺サイト 粥膳参考)。

この庭園は徳川家光より東本願寺に寄進されたものですが、元は源融(みなもとのとおる)の邸宅跡と言われています。その邸宅の名が「六条河原院」。その邸宅の名から河原左大臣とも呼ばれた源融は嵯峨天皇の十二男で西暦822~895の人。

この「河原」の名称は先に記した河原乞食の河原ではなく、河原町等、ただ鴨川の縁という感じだったのでしょう。

 

源融は御存知源氏物語のモデルともいわれ、当時は一世を風靡した人です。

その趣味は変わっていてその鴨川から導いた小舟に運ばせたものは海水。尼崎から取り寄せていたようです。

そもそも邸宅の庭園は陸奥国の塩釜の風景を模したといい、そこから塩を連想したのでしょうか。

貞観十一年の地震津波が869年の事ですから、釜石の被災は知っていたでしょうね。

伊勢物語に「賀茂河のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて住みたまひけり」とあります。

源融は別邸も各所に持っていて現在の平等院ほかその山荘だったと言われているのが棲霞観(せいかかん)で現在の清凉寺ですね(またはこちら)。

彼の亡くなったあとは塩釜の庭園も含めて荒廃し、今昔物語集等には源融の幽霊が出る場所として再び有名になっています。

「今は昔、河原院は融の左大臣の家なり。陸奥の塩釜の形を作りて、潮を汲み寄せて、塩を焼かせなど、さまざまのおかしき事を尽して、住み給ひける。大臣失せて後、宇多院には奉りたるなり。延喜の御門たびたび行幸ありけり。 」(宇治拾遺物語 巻第十二 十五 河原院融公の霊住む事)

 

清凉寺には源融と言われる墓があります。彼の墓ということになればかなりの古さ。もっともズングリ頭でっかちの宝篋印塔系石塔の4つの隅飾の立ち具合はその古さを物語っているようです。また見た目の苔のむした状態はイイ味を出しています。

キレイで整備されたお寺の境内の裏手ではない、比較的人の目に触れやすい場所にあるのも面白いところです。