嫌悪すべき秀吉の傲慢  早雲寺本陣の山上宗二

家康と秀吉のその「結果」から推す大きな違いとは何かと論ずると、まずは一言で、やはり「(味わった)苦痛の多さ」の違いでしょうか。それも若いうちの・・・。

そして前走者失策を自らのものとして改め、最善を修得したことでしょうね。

秀吉は、百姓の身分ながら滅多にないチャンスを掴む幸運と、天性の機転、頭のキレ、そして俊敏な行動力によって案外大した苦労もなく天下を手にしました。

人の才能を見抜く目を持った信長という良き大将、半兵衛、官兵衛という傑出した軍師を持ったということもありますね。

 

しかし、彼の天下が続かなかったのは悲しきかな、その性質。

まずはどん底から這い上がったといういわば奇特なるあり様で、いつ何時も順風の風を受けて本当の「我が世の春」の途を歩んだ人でした。システムの構築が出来なかったのです。

人の一生の中、通常あり得ない「すべての事が自分の思い通りにうまくいく」ということを実践した人でもあって稀に見る秀人でもありましたが、その老後と死後の豊臣家の醜態とお粗末さときたら何とも見苦しくて悲しいものがあります。

 

私は地域的好き嫌いでいえば勿論「坂東より畿内」ではありますが、歴史上決して豊家を襲った無常に同情する気にはなれません。秀次事件のところでも記しましたが秀吉の傍若無人と老衰の見苦しさにはまったく呆れ果てますが、ただの暴君と化していったとしか言いようがありません。

 

ところが家康の方はといえば、小大名の嫡男として生まれたものの、幼少より苦難の連続でした。

勿論三河家臣団の結束力というものは不可欠でしたが、総ての事が本意に反し、運命的ともいえる苦難や、苦渋を飲みながら、最善を尽くし先を切り拓いていったという努力と忍耐力が見られます。

 

秀吉と同様、機会を生かす力と機敏さは持ち合わせていたものの、秀吉以上に天下人としての成功を確実のものとしたのは、やはり幼少期からの運命的に無理矢理強制された迷走と太原雪斎らから受けた教えを素とした仏教的精神による生き方だと思います。

旗印の「厭離穢土 欣求浄土」など、有名ですね。

 

仏教的教えとは昨日のブログでも記ましたが、「感謝と懺悔」です。「ありがとうとごめんなさい」とも記しましたがその姿勢をまた、わかりやすく言えば「人の意見を聞く耳を持つ」なのでした。常々記していますが、人間はそのスタンスの変化によってしばしば自らが神仏と化した如く(他者を認めない)になってしまうものなのです。

そこのところをまた家康は理解していたと思います。

神格化されたのは自らの死後ですね。

 

また「感謝と懺悔」について代表的なエピソードをあげれば・・・、家康の人の名と顔の覚えと戦働きの観察力は飛び切り優れていたといいます。良い働きをした者にその名を呼んで「あの働きは天晴」と褒め、感状や褒美を与えていました。

ただの大盤振る舞いではなく、顔と名はしっかり覚えているぞといって親身さと自らその嬉しさを表して感謝の意を述べるというやり方です。

その後の戦働きにも力が入るというものですね。

「人たらし」という人心掌握術に勝れた語に秀吉を当てはめることが多いですが、私は家康の方が一枚上と見ています。

 

また、「懺悔」といえば「三方ケ原」のボロ敗けでお漏らししながら散々の体で帰った城中、絵師を呼びつけて今の(ボロ敗け大失態を犯した)自分を「絶対に忘れてはならない」と描かせた(しかみ像)の話はこれまた有名な話。

 

 秀吉の秀次事件をはじめとする「感情的」ともいえる残虐無比の事柄は多数あります。

茶の湯といえばその名が真っ先に上る茶聖千利休への難癖と切腹の処断もさることながら、利休の一番弟子ともいえる山上宗二(やまのうえそうじ)への非道はただの支配者の傲慢と驕り以外の何ものでも無いですね。

 

当山庫裏には「一期一会」の軸が掛かっていますがその語を世に知らしめた人が山上宗二です。

 

山上宗二は当時の諸先輩に違わず堺の商人から茶の湯の道に入った人ですが、凄いと思うことは飛ぶ鳥を落とす勢いの天下人「秀吉」に注進・忠告したということですね。

その注進は「道理にかなっていることとはずれていること」(理非曲直)であったといいます。その意は「是非善悪」。

いわば秀吉に向かって「悪いことは悪いのだ」と説教したということ。

まともな為政者というものはそこで反省する気持ちが起こるのですが、秀吉にはそういった謙虚に人の言に耳を傾けるという気持ちは一切なく、そこではただただ怒って宗二を放逐したそうです。

 

しばしば周囲傍観者数ある劇場型の問答の中、怒りより赦しを選択演出した方が、人心掌握には効果的であるということをも忘れ去っていたということも陥りやすい君臨する王の姿です。

 

それが天正十二年のこと。時間軸としては十一年が賤ヶ岳、十二年が小牧・長久手、十三年が大徳寺の大茶会。そして関白になった年です。特に畿内において秀吉に何か申す事ができる者は皆無に等しい時期でした。

その後も秀吉の宗二に対する怒りは続き、一時は高野山に逃げ込んだほど。そして宗二が行きついたのが小田原北条の庇護だったのでした。

 

小田原征伐にはるばるやって来た秀吉に宗二は驚いたでしょうね。本意ではなかったでしょうが、思わぬ再会の場所を師匠の利休によってセッティングされています。北条家への温情対応を頼みたいという旨もあったのでしょう。

 

秀吉が寺を本陣としたのが天正十八年(1590)四月五日(→助兵衛物語)でした。秀吉は「これまでのことは許すから」として自分の許に山上宗二を呼びよせますが、彼は当時仕えていた北条玄庵への裏切りは出来ないとそれを断りました。そこで再び秀吉は激昂。宗二を捉えて斬首してしまいます。

それがただの斬首ではなく、耳を削ぎ鼻を削ぐというやり方でまさに人道を外した鬼の仕業。当時の処刑方法として珍しい事ではありませんが、理由はほとんど「気にくわないから」と同様ですからね。天正十八年(1590)五月十九日に処せられています。

この件は早雲寺周辺の出来事であったことが推測できます。

 

この手のことをやっていたら人生の酷いしっぺ返しは必ずやってきますね。否、人の道を逸れたのなら、そうで無ければならないのです。

肝要なのは「他者の厳しい評価を真摯に(仏の意思であるが如く)耳を傾ける」ことですね。そして自分の行為が「正しい」は往往にして「思い込みである」ということに気付かねばならないということです。

 

私の事?「それはまず置いといて・・・」というのがイケません。

それからでした。

 

画像は湯本早雲寺境内の山上宗二の碑と顕彰碑にアップ画像。その下の3点が私の主観、「イイ感じ」出ている早雲寺墓域の墓石。

 

追加の3点が堺の南宗寺、天慶院の山上宗二の墓碑(場所はここ)。

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    あこ (水曜日, 14 9月 2016 20:35)

    とても興味深く読ませていただきました。ありがとうございました。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 15 9月 2016 00:10)

    こちらこそありがとうございます。
    よろしかったらまたお越しくださいませ。