責任と大いなる失意  榊原清政と照久寺

駿府から鷹狩に田中城に居た家康の元に御用商人茶屋四郎次郎が遊びに来て、食に関する京都の流行りもの「鯛の天ぷら」の話をしたことが、家康の死のきっかけと言われています。

健康管理には人一倍気を使っていた家康ですがこの時ばかりは調理されて出された「新しい味覚」が大いに気に入って食べ過ぎたようです。

 

自身の「食欲」が元で死を招くというのは現代人の病気発症の原因と同じですね。

さて、その「鯛」を差し入れた人が榊原照久という人です。

もっとも家康没後に清久→「照久」に「亡き家康のお告げがあった」ということで変えたのだといいます。

 

その榊原照久は駿河有渡郡(駿府南部)3000石を拝領し、後の一万石未満で大名身分の「交代寄合」旗本榊原家のスタートとなった榊原清政を父に持ちます。駿府にあった家康が駿府城の前衛の要害を護らせるという意図で、家康亡きあとの廟も代々、久能山東照宮城代の家として続きました

榊原といえば歴とした譜代、それも徳川四天王の一人とされた榊原康政の名を思い出しますが、清政は康政の兄です。

 

長男が家督を相続することが常であったこの時代、榊原家本家を継承したのが清政では無く康政だった理由は、清政がもともと病弱であったこともありますがやはり「その責任と大いなる失意」だったでしょう。

 

それは「信康事件」の引責です。彼は信康の傅役だったのですね。

以前横須賀城の大須賀康高(1  2  3)について記していますが康高死後、世継ぎを榊原康政に嫁がせた康高の娘の子ということもあって忠政を養子として大須賀家に入れます。

大須賀忠政は家康の関東移封に付いて上総に赴きますが後に初代横須賀藩主として遠州へ。


彼も若くして病没(二十七)し、遺された3歳の忠次が大須賀家の跡を継ぎましたが、次は榊原家当主榊原康勝に子が無くて榊原家断絶寸前。その際、理解不能になりますが大須賀家当主大須賀忠次を榊原家へ養子として出すというウルトラCをやってのけました。大須賀家と榊原家という今でいう企業合併の様ですが存続家名は「榊原」。「大須賀家を潰して榊原家を残す」という形になって何とも勿体無いような気がします。

高天神戦はじめ家康の元で功名をあげた家でしたので。

 

今一つ腑に落ちないのは榊原家には康政の兄の清政の流れがあったわけで、本家となった康政流が断絶しそうになったのなら、清政の系統を館林藩十万石へ入れれば良かった話と思います。

駿府東照宮と駿府城詰城久能山(またはこちら  )を専らに差配する幕府城代という肩書ではありましたが、やはり十万石の大名とでは「ちょっと違う」という感がありますね。

 

久能で清政の跡を継いだ照久は山の麓に寺を築きます。

その寺の名が彼の名から照久寺(場所はここ)。久能榊原家の菩提寺です。

現在は先日ブログにてお知らせした駿府の宝台院の別院としてその名を改めています。

 

画像は夏ころの宝台院別院照久寺。②院号の安養(あんにょう)は浄土系の臭い。清政の墓は久能山に向かっています。

 

 

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コメント: 4
  • #1

    遠藤隆 (日曜日, 07 6月 2015 12:45)

    榊原のまつえいです

  • #2

    今井一光 (日曜日, 07 6月 2015 13:42)

    遠藤様
    サイトへの記述ありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

  • #3

    村上裕子 (日曜日, 25 9月 2016 13:41)

    先祖のことを調べていて ここにたどり着きました。私の母は 榊原家の末裔です。榊原のお墓は兵庫県宝塚市にあります。昔の地名は川辺郡です。
    母から聞いたご先祖の話を思い出しながら本やネットで色々調べています。ご先祖の皆様に思いを馳せながら…
    詳しい情報をありがとうございます。また何度も読ませて頂きたいと思います。

  • #4

    今井一光 (日曜日, 25 9月 2016 21:09)

    村上裕子様
    嬉しくなるようなコメントをありがとうございます。
    宝塚には知り合いがいて何度かいて何度かその周辺をブラついています。
    お墓巡りにはたどり着きたいところです。
    先般は宝塚を飛び越えて、三木と三田で1日過ごしました。

    榊原といえば分家筋流れは多岐に及ぶもののやはり「徳川四天王」の康政さん。
    村上様もちゃきちゃきの徳川佐幕派とお見受けいたします。
    これからもどうぞよろしくお願いいたします。