家康の教育論 「大三河志」岡崎(松平)三郎信康 

最近の世の子供たち、「どうかしてる」と頭を傾げる方、いらっしゃるでしょうね。横になった首が元に戻らなくなるよう、日々三面記事に驚かされます。

子どもたちのやる事為す事スケールアップすること止めを知らず、気の小さい私など愕然とするばかりです。

他人様のお子様についてとやかく言う前に「自身と手前の息子を何とかせい!!」とお叱りを受ける事を承知で記させていただきます。

 

私は神奈川県生まれ、仕事は沖縄以外は小田原・町田・横浜が主で環境は相良とは雲泥の差。

当初、子供たちの成長の場として、神奈川県内か静岡県内かをずっと考えていました。しかしあの時は父親が風呂場で倒れ(心筋梗塞)、果的に横浜を引き払って相良へ来ましたのでその手の選択の余地は無くなりました。

今、考えてみればまったくもって「いいタイミング」だったことと安堵しています。

 

これもお叱りを受けるでしょうが、「静岡」と「神奈川」子供の悪辣さはこれも「雲泥の差」を感じます。自分の非行を棚の上に置いて記せば当時からその悪質さの違いには気付かされていました。

神奈川県内の学校に行かせば特に私の「集中力欠如的で好きな事のみ没頭する」いわゆる異常性格(かも?)を受け継いだ子供の性質(たち)を推察して、あのいたるところ「誘惑」が転がっている神奈川という地に居つづける事が当家にとって大いなる危機であったわけですね。

 

もっとも今後の事は一切わからぬ我が身我家わが息子ではありますが、さっさとあの神奈川と東京から「おさらば」できて本当に良かったと思っています。既報の通り次節、次男は京都住まいが決定しています。

 

最近たて続けに神奈川県内のすべて私の覚えのある場所で起こった事件にはどれも驚きです。最初から息の根を止めてやるが如くやたら刃物を持ち出してくる事件2件と、未成年・無免許・飲酒・暴走死亡事故という、いくら何でも一昔前ではこれは無かっただろうという「交通事件」がありました。

 

そういえば普段は「絆」とか「友達」などと異口同音に口にしていた(私にはそんな言葉を公然口に出せないような照れと陰湿さがありましたので)連中―都会の若者―の幼稚な本質を垣間見たような気がしています。

それだから「子供」というのですが、今平気で仲間を殺し、同乗していた事故車から平気で立ち去る「御身のみ大切」という諸事案を見てそう感じました。

 

何か子供だからと言って話を収拾させるワケにもいかないレベルでしょうね今時は・・・。

神奈川県恐ろしやという気持ちもありますが、当の保護者、大人たちはいったいどうなっているのだという疑問も湧いてきます。これは私が元々神奈川やトーキョー方面に居て、子供のオトナへの誘惑というものがチンケな喫煙・飲酒に集団暴走程度のド田舎とは「人・宗教の違い」さえも違うのではないかと思うほどに、こちらに引っ越してきて体感したものです。

 

未成年者の不始末に関しては全面的にその親がその「起こした面倒」についての責を負うのですが、親としてはまさか、そのような破滅的末路を辿る我が子の醜態を見ようと、生まれてからこのかた「教え」を伝授してきたつもりは毛頭無いでしょうね。

しかし現実はこの通りの様。

 

名のある武将の家では子供が生まれるとまず親は自分の手では育てません。「傅役」(ふやく もりやく)といってその者の家族ぐるみでの教育を受け持たせます。主の屋敷からは離すことになりますね。

 

我が子を我が懐に置けばどうしても「親の溺愛」によって世間知らずの跡継ぎが出来上がってしまい、そうなれば家の滅亡にも繋がりかねません。要は子を厳しく「矯正する」ための家庭教師の家にて養育してもらうということです。

そうする事によって、その養育係の子たちと、次期御当主の関係も深まりお家はいよいよ盤石となるという未来志向の教育方針でした。

 

家康は長子の信康にその「傅役」として複数の家臣団を付けましたが、結局は父家康から自刃を言いつけられて果てています。

その理由は現代に於いても謎の一つとして色々な説が飛び交っていますが、家康はその「自分の最初の失敗」を回顧するが如く後の孫たちへの教育について、「大事にすべきスタンスとは何ぞや!!」というポイントを語っています。この手のお話を目にすると、信康事件は「父対息子」という現代風親子の問題が本流にあって、それらに家中の利害軋轢、対信長、対信玄等々の枝葉が付いて行ったような気がします。

 

国立公文書館、「大三河志」(だいみかわし)画像⑨⑩~陸奥国守山藩主松平頼寛編纂~のその教育論の部分、意訳が添付されていました。概略記すと・・・

 

「たとえば利口そうに見えるといって、幼い子を叱りもせず自由放任に育てると、わがままで勝手気ままな人間に成長してしまう。そうなると親のいう事は聞かない。親のいう事を聞かないくらいだから、むろん家来の忠告など聞くはずもない。

したがって為政者としてばかりでなく、一人の人間としても身をたてることもできない。~そもそも「幼いゆえ厳しくしつけることはない」と思うのが間違っている~

幼児は素直で順応性に富み、少しぐらい厳しく(窮屈に)しつけても、それに慣れさせれば、特に苦痛を感じないでスクスクと育っていくものなのだ。

 

樹木に譬えてみれば、双葉が開く時は、乳飲み子が懐に抱かれているように、大事に育てられる。しかし、一、二年が過ぎ、枝が伸び葉が茂るようになると、添え木をしたり、悪い枝を落さなくてはならない。

そのようにしないと真っ直ぐな木に成長しないからだ。

子どもの教育も同じである。

四、五歳くらいから添え木となる「しつけ役」を付け、悪い枝(悪い性分)が伸びないように注意すれば、立派な人間に成長するに違いない。

 

ところが幼少の頃「なにはともあれ丈夫に育てばいい」と思って放任すると・・・。成長してから言って聞かせて、戒めようとしても、すでに手遅れだ。

悪い性分ができあがり素直な心を失った者が、人の意見に耳を傾けるわけがない。」

 

家康が2代目秀忠の奥さん=お江へ伝えたかったことだそうです。

三郎信康(家康の長男 「信」信長の偏諱)の件の失敗を後世に渡って生かしてもらいたいという家康の思いなのでしょうが彼には複数の「傅役」がいて結果的にあのような悲話を招いてしまったのですから、「子育て」ほど難しいものは無いでしょう。

そこのところ信玄も同様でしたね。

 

ただ「なにはともあれ丈夫に育てばいい」という一種大らかさ、余裕ある親の考え方(一時期相当持て囃されました)は現代社会の子育て法としては「もはや無理」の領域に入っているのかも知れません。

 

叱りっぱなしもよくありませんが、今の親は叱らなすぎの感。

高校生スマホ1日7時間平均というのは異常以外何ものでも無いでしょう。

みんな子供たちは言いますね、「友達が命、大切」と。

わる~いオトナの私はその言葉を聞いて思わず「ニヤっ」としてしまいます。

 

亡くなった父も過去に私がその手のニュアンス、遊ぶための逃げ口上として臭わしたりすれば、「大人になって友達なんて消えていく」とそれを恰も「無価値」であるかの如く嘲り笑っていました。まぁその事は極論ともいえますがまんざら外してはないでしょう。

 

画像は浜松天竜区二俣の「清瀧寺」(場所はここ)の信康の廟。

都合三度ほど参拝していますが、五輪塔は数年前、廟内工事中のドサクサに撮影させていただきました。昔見た「反逆児」という映画の錦之介信康の切腹のシーンを思い出します。

ああいう映画、なくなっちゃいましたね。