「法螺を吹く」は仏法を広める意→偽坊主 私?

昨日記した「ごまの灰」の件、今でいう「ごま化す」の方がより身近な表現ですね。もっとも語源はその「護摩」とは違う説もありますが・・・。沖縄では結構有名な「胡麻菓子」というものもありました。

 

同じように「出鱈目・インチキ」を表す譬えに「法螺吹き」があります。

法螺と言えば古くから合戦開戦の合図としたり戦意を鼓舞するために吹き鳴らしたりしましたが、やはり遊行僧的に山岳信仰(修験道)に入った山伏のイメージが強いですね。

 

この「法螺」についての語源は各種ある様ですが、やはり一番に考えるのは「お釈迦様の説法」にかかわること。

現在、大抵の寺院では法要開式前に梵鐘を打ったり、喚鐘を鳴らしたりしますし、経典読誦の際の鏧(キン)を鳴らす事は皆さま御存知のことと。

 

ちなみに自宅法要の前に御内佛の前の鏧(キン)をサッと座って2回ほど打ち、合掌して退席する姿を見ますが、それはまったくの俗習ですね。

あくまでも鏧を打つということは、「これからお勤めがはじまりますよ」の合図ですから・・・。

 

「法螺」という字を見ても「法」とありますね。

そもそも当然ながら「法」とは「仏の教え」という意味です。

それでは上述の出典を見てみましょう。

浄土三部経の中でも真宗の最根本経典、「大無量寿経」です。画像①。

 

『智力をもってして、みな降伏せしむ。微妙の法を得て最正覚を成る(=覚る・悟る)。釈・梵、祈勧して転法輪を請ず。

仏の遊歩をもって、仏の吼をもって吼す。

法鼓を扣き、法螺を吹き、法剣を執り、法幢を建て、法雷を震ひ、法電を曜(て)らし、法雨を澍ぎ、・・・』

 

法螺を吹くことによってその法縁の開催を人々に知らせ、その音を聴いた人々は我れ先にとそのすばらしいご縁に遇いに行く。

それが本来の法螺を吹くこと。ということでそのような仏法を広げるための法縁の開催にはどこでも法螺を吹くというのが一般的になったのでしょう。

 

ところが、その法螺の音を耳にして、坊さん(らしき人)の話を聞きに行けば、何のことは無い、悟ったごとくで全然違う、バカバカしい、インチキ、脅しの金策、詐欺師の類。絵空事ばかり・・・。よって法螺貝の音=インチキの如くに人々の中に溶け込んで、このような言葉が広がっていったというのでしょうね。「ごまの灰」よりもよほど人口に膾炙してはいますね。

坊さんとして耳が痛い。

 

私としてはせめて、本来の意、「素晴らしいお説法には及ばない」のは当然に受け止めて、むしろ最近の意、「嘘つき」と罵られないような生き方をして行かなくてはなりません。

「嘘つき」とは色々解釈ありますが、ここで私は「一貫性、スタンダード」を心掛けるということでしょうか。

 

それにしても『智力をもってして、みな降伏せしむ』これこそが仏の教え、胸を張りたいところです。「武力では無い 法の剣」です。逆に現実のギャップに対して「仏教界」がいかに機能していないかも感じてしまいますが・・・

 

ちなみに上記「転法輪」とは「仏の教えの車輪の如く転がす」ということで、「衆生に教えを広める」こと。僭越ながら当山先代の院号「法輪院」は此方から私が取らせていただきました。

 

②③静岡愛宕神社。ブログでは可児才蔵「おれは権現」(司馬遼太郎)等にて愛宕神社について記していますが、この系統は修験道でお馴染みです。神仏習合(土着神道系と仏教のミックス)でしたのでやはり明治の廃仏毀釈でダメージを被っています。

 

昨日の「灰」の高野聖と修験の出現は同等で柳田圀男の弟子の折口信夫(釈迢空)は遊行流浪の世間流布のための僧としてくくり、それらの本流、亜流、コスプレ・インチキの類が「ごろつき」の発祥であると記しています(ごろつきの話)。江戸時代以降その名に「五郎」が付くと流浪して、反社会的無頼漢となることから、あるいは改名したのでしょうか「ごろ(五郎)つき」となったとか・・・

 

折口は高野聖・山伏の類がその「ごろつき」の起源であって、山伏に関して「依頼と恐怖との二方面」という表現を使用しています。依頼とは祈りであり、恐怖とは呪いです。

 

「逆法螺を吹く」という言い方もある様ですが、これは有り難い御説法や功徳・祈願の逆、「呪いをかけるぞ」の脅しと恐怖ですね。何をしでかすかわからないよそ者だったのでした。

 

民衆は「それだけはかなわん」と山伏スタイルの人に対して丁重に当たるのが「さわらぬ神」であり、彼らは「易々と糊口の道が得られ」国中を闊歩することができたとのこと。

 

しかし一番怖いのはどうやら案外ごく近いところにいるものかも知れません~和歌山の件。極論は「私の心の中」というのが仏法ですが、最近、やたらとマスコミを賑わす通り魔的犯罪は「案外ご近所の人」といのが定番になっているようです。

これは人を「殺(あや)める目的」が昔とは違っているということ。だいたいそれを目的にするということの異常性を問わなくてはなりませんが、人間関係の希薄さ等含め、あまりにも「暗くてそら恐ろしい不気味さ」漂うこれからの世風を物語っているような気がします。

被害者は勿論、被害加害双方の父母の気持ちを考えるといたたまれません。

 

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コメント: 1
  • #1

    今井一光 (土曜日, 07 2月 2015 20:39)

    言〇〇神様
    申し訳ありません。
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