いやはや「ごまの灰」? それともそんなご時世


「寺に住まう」というまったく「自分らしくねぇなぁ」と思わせるお仕事を父から継いで、8年という時間の経過を坦々ながらすごし皆さまにおつきあいいただきました。

 

「自分らしく」は今時のブームにも近い叱咤激励?のよう、とても妙な言葉ですがこれは、単純に「似合っていない」程度の事と思っていただければ。

 

先日、法事で初めて訪問したお宅がありました。

早朝から施主が寺に来られて、「直前に迎えに来ます」とのこと。

私は住所も知っている事ですし、大体の見当は付いていましたので、「当方でそちらに向かう」ということでそのご提案をお断りしました。

 

ところがどっこい、それは大いな見当違いであることがわかったのは約束の時刻数分前。見当違いの家は玄関が開いていましたが誰も出て来ず。

本当はご近所さんに聞くのが一番だったのですが・・・まぁそれは黒衣を着用していますので、無関係の家に「道を聞く」という理由であっても突然の訪問は相手が驚くので少しばかり気がひけますね。

 

前述の如く「楽勝」と思えて施主の厚意を断ったのはその近くに交番があったことがあります。

そこで私は交番へGO!。 

珍しく交番には複数の警官が居て、「これは良かった」と安堵して(誰も居ない方が多いので)目的の家を聞けば・・・

「個人情報だから教えられない」との談。

絶句しました。

「ニヤッ」と笑って退席しようとすれば、「電話を掛けて確認しましょうか?」という投げかけがあったことに救いを感じました。電話なら自分も携帯を持っていますので掛けられます。

交番から電話があったら先方が驚かれると思ってお断りしました。即座に御自宅に連絡して我が身の不覚をお詫びしたうえ迎えに出てきていただきその時は事なきを得ました。

 

しかしながら、あきらかに僧侶の風体で交番にお邪魔したわけで、殆ど「無害性」を漂わせていたつもりだったのですが、こちらで意外な返答を浴びせられたことには「降参」でした。

 

さて、「怪しい坊さん風体」というか、坊さんの恰好をしたペテン師が昔から跋扈していたものですが、それを「ごまの灰」と呼んでいました。

「ごま」とは「護摩」の事です。

コレはサンスクリットの「焚く・焼く」の語がなまったもので、ご存知、密教系宗旨の一形態。「火」というものにより煩悩その他の浄化をしようというものです。祈祷の一種ですね。

 

その焚いた後に残る「護摩の灰」を有り難いモノ、御加護があるモノ、願力のあるモノとしていわば仏格化してそれを地方を回って売り歩いたといいます。

大抵はどこにでもあるようなカマドの灰をかき集めて、眼病に効くとか病の快癒のため・・をこじつけて売りつけました。

ということで後世になってまがい物を売りつけたり、詐術により金品を捲き上げる事やその加害者の事を「ごまの灰」と呼びました。

 

信長が一向宗、比叡山を迫害したことは知られていますが、「高野聖」も多数捕縛されて殺されています。

高野聖は元はその字の如く真言の高野山の僧を指していましたが、中世遊行僧化して各地庶民生活に浸透していきました。

 

以前勝間田氏他、斯波系国人層が時宗の遊行僧を優遇して帰依したという事を記しましたが遊行化した僧たちを優遇するということは情報源を得るということになります。

その情報源は時に地方間のパイプ役、顔が効くということで仲介役としても重宝に使われましたが、天下の統一を目論む信長にとってはそれら高野聖は間諜(スパイ)以外の何者でも無かったのでしょう。

片っ端から捉えて排除しています。

 

その高野聖あるいは高野聖崩れまたは居住地を離れたり放逐されたような浪人、浮浪者が高野聖の恰好をして上記の如くの「ごまの灰」ということを生業としてその名を遺したのでした。

行商人なども白装束で行脚したといいます。白装束で物を売れば何となく「有り難い」感ありますからね。

 

要は「なんちゃって坊主」または「コスプレ」というヤツですね。

柳田國男は関東地方に残るバケモノ、「夜道怪(やどうかい)」とその高野聖を結び付けています。

「やどうかい」「やどうか」=「宿借り」で高野聖風の者が一夜の宿を民家の裏口に来て乞うたことが語源と言います。

よそ者で不気味、今でいう物盗り、通り魔や神隠し系もその「夜道怪」の仕業になったのだと思います。

庶民に浸透していった諺はまさにその当時の彼らへの感覚が伝わってきます。

 

「高野聖に宿貸すな、娘取られて恥かくな」

 

警官がその「ごまの灰」について知っていたかどうかはわかりませんが、私の正装を「胡散臭そうな坊さんの風体」を感じての対応だったと思うのは少々考え過ぎでしょうか?

道を尋ねただけなのに。

 

画像は境内、春の便り第1号。おすそわけです。

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (金曜日, 06 2月 2015 09:58)

    世の中はどうなっているのでしょうか。
    個人情報もあきれ返るばかりです。
    先日 妻も郵便配達人に家を尋ねたところ
    「局へ行ってください。私には教えられません」とのこと。
    局へ行くと地図を広げて「見てください。」で
    指さしてはくれなかったというのです。
    学校帰りの子供に「今日は早いね、何かあったの?」などと
    尋ねれば人の顔を見て、速足で逃げていく。
    どこか違っていると思うけど  寂しい世の中になりました。
    確かにとんでもない事件が起きているけど 違っていると思います。

  • #2

    今井一光 (金曜日, 06 2月 2015 20:35)

    ありがとうございます。
    そういうことでも、やはり「昔はよかった」になってしまいますね。
    「おかしい」と思いつつ何もできない自分に歯がゆさを感じますが
    「人間相互の温かみ―思いやりやら信頼」という点から見ても現代の
    違和感、住みずらさは、将来のますますの異常性を予測することができます。