査察のお役、3年任期二期目 令外官検非違使

静岡市に別院はありますが、何故か静岡県のお寺は三河別院のある愛知県岡崎教区という大きな括りの中にあります。教区の下に「組」(そ)があって(牧之原市・旧金谷町・掛川市は31組)「組長」である寺院住職が大まかな寺務を総括するのではありますが、数年に1度くらいの頻度で岡崎へ向かうことがあります。

 

以前、「組」で選出される「査察」のお役を仰せつかったことを記しましたが3年間の任期も終わって、もう3年間リピートとなって先日研修会に再訪しました。

 

この仕事は私を含めて組内住職さんの「非違行為」(非法・違法)について監視して発見し次第、教務所、本山宗務総長に申告して審問会開催の最初のお膳立てをしようというものです。

「非違」などと言う語は滅多に聞かなくなりましたがこれを見ると令外官の「検非違使」を思い出します。芥川の小説「藪の中」に登場しますね。

 

その仕事はどう考えても「告げ口屋」で、あまりいい仕事ではありませんが、受けたからにはどこかの人たちの流行り言葉ではありませんが、「緊張感を持って」あたらなければなりませんね。

何かあって知らんぷりでも決め込めば「査察」が御咎めを受けることになりましょう。とはいいながらも「出る幕はまず無いだろう」という気持ちで皆さん参加しています。

 

非違行為とは簡単に、「刑法に抵触」ということと考えればまずはそうなのではありますが、案外知られていないのは「失火」ですね。それがぼや程度であっても、査察対象で、審問会にかけられる重大事案です。「火災事件申告書」なる書式フォーマットまで作られているくらいです。

 

これは歴とした刑法犯であってその条文にも「公共の危険をきたし、多数人の生命、身体、財産に対し不測の損害を与える ...」とありますね。特に寺院火災の場合は寺院そのものの損失も多大ながら、長期にわたり門信徒に、また本山に対しても失うものの大きさは少なくありません。まずは「あってはならないこと」ですね。

 

今回気が付いたことは、上記「非違行為」だけではなく、「表彰」の件を強調していたことです(十条「篤信、篤学及び善行者の報告」)。

「査察員委員は、僧侶、寺族、及び門徒のうち、篤信又は篤学若しくは善行が認められる者については・・・」の文言です。

これは査察のお役の人たちにとっては救いですね。

非違行為を「チクチクチェックして告げ口」とは言いたくはありませんが、「表彰」というどちらかといえば気持ちのいい報告の方を強調していただいたことは良かったです。たとえばマスコミに取り上げられた場合等も申告していただきたいとのこと。

 

ただし、このなかでこの文言を強調したことにより、会場に疑問が湧いてきました。

当然でしょうね、真宗ではその「善行」について特異な感覚があります。親鸞さんも蓮如さんも表彰懸賞するような事として記していませんね。


親鸞さんでいえばいわゆる「悪人正機」の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや・・・」の続く「自力作善の人~善人は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず」ですし、蓮如さんの御文のフレーズで云えば以下の如くですね。

「自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへる」

「造悪不善のわれらごときの凡夫」「無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫」「もろもろの雑行雑善をなげすてて」

「余の功徳善根を修してもなににかはせん」

 

そもそも真宗の教えは一向専念無量仏、「他力本願」を標榜している宗旨であって、極楽往生のために「善行」を積むべし、との考え方は「私のはからい」主体であり「自力作善」と暗に慎むべきものと触れられています。

いかんせん煩悩に塗れた我が身の計らいによる「善」の思考は「好きな事は善、嫌いな事は悪」の如くであって非常にその判断基準はハッキリしていないというのが理由です。

 

よって本山の査察表彰の条項にあるそのものズバリ「善行」について「いったい何のこと?」と突き詰められると返答に窮してしまうのです。実際講師にその旨問い合わせた方がいらしてたのですが、講師は返答を避け、本山に指摘するという形で終了しました。

 

言葉尻つかまえて、「そう硬いこと言うなよ」と仰る方もいらっしゃると思いますが、やはりその言葉のズバリ表記についてはどうしても違和感があるというのが真宗門徒世界なのでした。

要は「善人などになれきれない、むしろ煩悩だらけの悪人でしか無い私が、善悪の判断をして報告することも、本山がそれを仕向けようとすることも宗旨的には大矛盾であった」ということでしょうか。

 

しかし現実問題として法社会にあって比較的影響度の高い寺の住職についても約束事決め事、昔の言葉で言えば「掟」があることも間違ってはいないでしょう。

「定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候」(改悔文文末)の如く、明文化して行動規範とすることは不可欠の事でもあります。

その文の冒頭にも「もろもろの雑行雑修自力のこころ(善を為そうという)をふりすてて」とありました。