「さるべき業縁のもよおせば・・」これも歎異抄

昨日、真宗聖典について記しましたのでついでにこんなものと画像をアップ。真宗学を学ぶに必携です。

以前、相当前ですが私が本山に研修に行った時のエピソード。

 

そそっかしい私が「必携の聖典」を持参するのを忘れたことに気付いたのが研修開始30分前でした。

そもそもコレは「辞書の大判」という感じで内容も密度が濃いですが、その風体は決して小さくは無くズシリと重たくてガサばります。

遡って考えればバックに色々突っ込む際にストレスを感じてはいましたが、その後記憶は飛びバックは妙に軽かったものと思いました。

 

「必携の聖典」を忘れたとなればきっと公然と吊し上げられるか、酷く見苦しい立場に見せしめとなるかもと自分ながらの計らいが起きて、同朋会館の売店に走りました。まあ忘れた自分が悪いのですが。

だいたい聖典は2册も要らないのと余分な出費で結局違うストレスが出現してしまいました。

 

話のオチ。講義が始まってから、講師が「聖典を広げてください」と言った際、私と同様に「すみません聖典忘れました」というかなり余裕というかノー天気な御仁が現われました。

思わず私は内心ほくそ笑んで「さぁ講師はどうコイツを血祭りにあげてくれる」と意地悪い期待感に包まれて次の講師の言葉を待ちました。優越感に浸りたい一瞬ですね。

すると講師は「そうですか、事務所にあるから借りてきて・・・」と強烈な「大岡裁き」というか今考えれば、「本山捌き」でした。

 

一瞬割り切れない感情が沸き起こりましたが同時に自分の狭量でセコイ嫌らしさを思い知らされたというわけです。

そういえば本山に関わる人たちについて私は「本山モード」に入っていると感じていますが、応対する人すべてに温かさを感じます。

あの寺に入ると「戒律の如くの厳しい空間や上下関係」をまったく感じさせませんから世間で言われる「人間」というものへのストレスはありませんね。

 

さて、標記は歎異抄の有名な一節。

昨日の「他力」に対して「悪人正機」から「他力」を語るうえで「御開祖はこう申しています」と掲示されます。

 

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」

 

です。

人間は善悪、善行・悪行の判断を自分勝手にして、人の良い悪いを三面記事的事件を語るが如くの第三者的判断をしますが、御開祖はそんな判断こそ刹那的であって、ある時ある場所ある環境に遭遇した時人というものはそんな三面記事的、他者に誹謗されるような事をも自らしでかすものだということを仰ったと。

 

人は罪人を見つけると(逮捕すると)刑事罰を与えて刑務所に送ります。刑務所に送ったらそれでおしまいですね。

罰・ペナルティーが決定して社会からの「退場」が決まればフィニッシュなのでした。

それら問題提起として昨晩のクローズアップ現代で「犯罪を繰り返す高齢者」について放送されていました。

 

65歳以上の受刑者は20年前の5倍で2200人もいるそうです。

犯罪自体は下降傾向だそうですが高齢者のそれは特筆的に伸びているとのこと。

そのうちの7割の人が痴呆症など病気にかかっているそうです。


何人かの受刑者にスポットが当たっていましたが人によっては収監されたのは10数回に及ぶということで「出たら入る」の連鎖が続いているようです。

原因は縦割りの行政と福祉支援の希薄といいます。

 

刑務所に入ったという体裁の悪さから故郷には帰れず、家族からも絶縁されて、支援者も居ずそれでいて再就職もままならずとなり貧困から万引き、無銭飲食、賽銭泥棒という軽微な犯罪に走り、保護者不在で起訴されて何度も刑務所を行き来するそうです。

その連鎖を絶つために司法と福祉が協力しつつあるというのが今回の放映でした。

 

色々な思いが交錯し、溜息が出るような事案ですが、やはり私は宗祖のこの言葉を思い浮かべずにはいられませんでした。

ああ私もそういう環境にあれば何かしらしでかすのだろうと思った次第です。

 

「きっと自分もそうなるだろうからあなたをゆるします」の精神ですね。本山が死刑の廃止を提唱しているのも、先日の渉成園(枳殻邸)の件も同様の考え方でしょう。

渉成園の件は今年のGW頃の話でしたね。その時ブログでも記しましたが本山は「謝罪の意思を信じ、今後二度と同じ過ちを繰り返さぬことを心から願っています」といって被害届を引っ込めて(両親から弁済されたこともあって)告訴しなかったのですね。

その事に対しては批判もあったようですが、私は「なるほどね」と思っていました。

 

実をいうと私の好きな文言はこのあとに続きます。

 

「当時は後世者ぶりして、よからん者ばかり念仏申すべきように

あるいは道場に、はり文をして

「なむなむ(何々)の事したらん者をば、道場へいるべからず」

なんどということ、ひとえに賢善精進の相を外に示して内には虚仮をいだけるものか。願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり」

 

「後世者」とは「善行を積んだすばらしい念仏者」とか「修行者」のことで「ぶり」がついていますから「形だけ」「表面上」の人のこと。そういう人に限って、「ああするな!こうするな!」と貼り紙して「清く正しく美しく」ぶっている。

 

痛烈な「本願ぼこり」のご指摘です。

珠玉の言葉が詰まっている歎異抄ですがなかなか気が付いていけないのが凡夫の身の哀しさです。

しょうがないですね、まったく・・・。