牧之原市 「落居」の「上ノ城」不詳ながら

ゴミの処理や所用が重なり時として1日4往復はすることもある須々木・地代・落居・地頭方地区、駿河湾に沿って走る150号沿いの舌状台地先端には、地元豪族系あるいは武田時代の城址?を思わせる遺構があります。あくまでも想像ですが・・・

ただし標記「上ノ城」(場所はここ)はその残っている地名とロケーションから「何かがあった場所」だろうと言われています。

 

小山城―滝堺城―相良城の流れで相良から塩買坂経由で内陸を通過して高天神城を目指す物資補給路に点在する後方支援的な城塞・砦・烽火台の遺構は想像できますが、内陸に入らず沿岸線に沿って相良からさらに御前崎方向に進む方向はあまり着眼されていません。「落居」ですね。

 

これまで数回、この地のことを記しています(   )。

「落居の城ノ山」、こういう地名が残り、削平された土地が台地上に残存し、尚且つその手の遺構にありがちな小さな神社(春日神社)が残っていればますます「何か?」と思いを廻らせます。


もしかすると「比木の城山」で記した「鎌倉より上陸」した比企の落人が比木地区に入る前の入った居館か、それとも後世の武田水軍の烽火台件、延伸した兵糧基地か?想像すればキリがありません。武田の砦とすれば相良から高天神に向かって塩買坂を直進するコースとは迂回路になります。

 

台地先端の削平地(⑩の青〇で囲った地)と神社敷地から眺めてみると海方向東側にある興味深い緑地帯に目が留まります(⑩の赤〇)。

近づけば土塁状の囲いと窪地。お屋敷風です。

現在は相良では著名なサーフショップのオーナーが買い取っているそうですが、以前はこの地での有力な家系、小塚家の屋敷跡とのこと。

もっとも当家も近世以降この地に来たと聞きますので往古の名ではありません・・・。

 

台地の先端に真言宗の弘法寺さんがあります。

境内の石標によれば明治期に浜松より当地に来られたお寺で本堂は大正期の建立。それ以前は比木の正福寺さんの末寺で曹洞宗の海蔵寺というお寺があったそうですが、前述の小塚家主導で真言宗に地区住民がこぞって改宗したとのこと。

 

ちょうど現在の墓地があった辺りに御堂があったそうですが、当時の墓石らしき数基は小さな祠の近くに見る事ができました。ざっと見ただけですが古いモノでは宝暦の年代がありました。

 

曽根・中山の名が目立ちますがここでも高天神崩れを予感します。