死に方を見せるという生き方  一柳直末 首塚

山中城域にある宗閑寺の一柳直末の墓は山中城散策と同時にお参りできますのでいかにも安直ですが、そもそもこちらは戦いの後100年以上を経た江戸元禄期に子孫が建てた供養塔です。

 

山中城の岱崎出丸底部へ秀吉軍一番乗りとして取りついた一柳軍1000名の大将が一柳直末です。本城とは現在の国道一号線で分断されているのが岱崎出丸で北条得意の畝堀が美しく整備復元されています。

いくら背後に秀吉本隊を控えて支援は間違いないとは言ってもこの山城の最先端に取り付くなどというのはかなりの無鉄砲どころか自殺行為、誰でもこの先鋒だけは渋りたいところですが、彼は手を挙げてしまったのでした。

 

数万のギャラリーがその戦いぶりを下で「見物」しているわけで、誰もが彼の戦いを賞賛していたとは限りません。そんな中一柳は半ばその場を死に場所にしようとの覚悟があったのかと思います。

あとの事を腹心の部下に頼み、一途にその勇猛さ、武威というものを後世に残すため、後に続く部下たちは勿論、続く友軍にもその背中を見せなくてはならないという使命感に似たものがあったのかも知れません。

 

案の定一柳は北条方の出丸守備軍の間宮康俊率いる鉄砲隊から撃ちおろされる一斉射撃によって命を落とします。

そしてその遺骸がこちらからしばらく下った「こわめし坂」の一柳庵まで運ばれたということでしょうか。

 

遺体(特に首級)を相手方の手に渡さないために大挙した友軍の控えるこの坂下まで運んだのは一柳の生前の「段取り」であったことは推測できますね。

ただし、この一柳庵の直末の墓地は胴塚であって首塚はさらに戦場から離れた地にこっそりと埋葬されたといいます。

 

敵軍は恩賞のベースとして、味方は屈辱から逃れるために、兜首、特に大将首は取り合いになります。

遺体となったその跡形は「みしるし」といって「首級」のみに「凝縮」されて胴体からは切り離され、持ち運びやすくしますが、直末が手傷を負ったあとの家臣らは、とにかく「無茶苦茶の乱戦」の戦場から彼をひきづり出して、相手方に大将首が渡ることのみを憂いて、懸命に大将を搬出したのでしょうね。

 

一柳庵まで辿り着いた辺りで直末の絶命を確認し、首を切断したということでしょうか。

この後は推測ですが、首と胴を分けたのは最初から直末との約束があったのかと思います。

敵方北条軍にもしやの反攻にあった場合にそなえてのことだったかもしれません。

念には念を入れて首だけは100%敵方に渡さない方法を思量せよとのことだったと。

戦時下の対応としてはこの方法しか選択肢はありませんし、小田原攻めで秀吉軍が大勝したことなど後になってからわかることでしたから。死に方は見せて屍は晒さない。クールです。

 

家臣は段取り通り?直末の首をさらに東海道をくだった原野に密かに埋めたとのこと。場所は246号、都心では「青山通り」と呼びますが長泉町の長窪という地、「陣場」の交差点から「黄瀬川のほとり」を目指します(場所はここ)。

 

首塚は伊予国小松藩の弟の直盛の次男、一柳直治が建てたものです。この場所は台地の先端で、入り組んだ黄瀬川を見降ろす場所で10m程度の高低差がある場所です。まぁここまで来れば「一安心」というところでしょうか。直末なき一柳家を継いだのは弟直盛ですが、関ヶ原では東軍についてその3人の息子たちがそれぞれ大名として引き継いでいきます。長男の直重の息子の時西条藩3万石を改易されていますが、次男三男の系統は幕末まで続きました。

 

「伊予国」はもともとの一柳家の出自で伊予の海賊、河野家の流れと言います。幕府側の配慮でしょう。

時宗の一遍上人の祖父は河野通信という人ですが一柳の系統も同様です。