ここにもあった一柳直末の墓

昨日の箱根旧街道、「こわめし坂」は坂に面して住宅がビシっと並んでいて、幅が狭く車を停車する余裕はありません。

私は国一の笹原から下って入りましたが、その角の看板脇に駐車スペースがあったためそちらに車を置かせていただき、100m程度歩きます。この辺りの街道は比較的緩いというか坂道を感じさせない傾斜です。

 

右側奥にそれらしき石碑が見えます。

そちらの墓域が「一柳院」(いちりゅういん)です(場所はここ)。その名を見て一柳直末の名は連想することができます。

この地より1~2㎞ほど上った辺りが山中城ですからね

 

一柳の名が日本史上で今一つメジャークラスとならなかったのは彼がこの山中城で憤死したからですね。

この戦いの中で彼の死に秀吉が悲しみに暮れたといいます。

信長時代からの配下、勇猛果敢な武将で、その名の通り一本槍な気性だったよう。


彼の生まれた家は美濃の国人領主家で歴とした武士。

天文十五年(1546)に生れて秀吉の出世道を同行した人です。

のちに子飼いとた加藤清正や福島正則(ともに1561生れ)より数段格上の人でありました。

 

城址に隣接する宗閑寺にその墓は建てられていますが、彼の墓碑はこちら一柳院にもひっそりと佇んでいます。

ひっそりというのは何らの掲示板にも記されていないからですね。石碑の彫られた彼の戒名「大通院殿天叟長運大禅定門」の文字を確認してやっと一柳直末の墓であることがわかるのでした。

まぁこの地にその墓碑への挨拶と、数多の人が訪れたら住民は困り果てるでしょう。

 

この墓碑がこちらの墓域では一番古そうでしたので、彼の墓が建てられたあとから祠が建ち、寺となって裏山が地域の墓地となって行ったという変遷がうかがうことができます。

 

②が直末の墓碑。案内板の一つもありません。

③「史跡 一柳庵」と石碑があるのみ。

富士山は裏山の墓地より。