今「舎利」と耳にするのは寿司屋と火葬場

このほど、メールにて以下のテーマをいただきました。

『旧仏教では仏舎利は信仰の対象で、塔などはその仏舎利を荘厳するものと理解しているが、鎌倉新仏教での仏舎利はどのような存在か?』

ということでブログにてその回答を兼ねて私なりにそのことについて記してみることとしました。

 

 実は、私はその件とは少しばかり異にするものの、つまるところやはり、どうしても思量せざるを得ない現実の問題に頭を悩ませています。「無い頭」であることと私が一人で声を出してもどうにもならない事ですが。

 

 さて、発祥は鎌倉時代、同時期に南都(六宗)、真言、天台等を離れて成立した「新しい風」の一群にある私ども浄土真宗の「遺骨」に関しては他宗とは特に異質とも思われる考え方であることはブログでも記しています(親鸞聖人の墓)。

ここで真宗をベースに記すのは私が他宗の考え方については「知らない」ということからの推測であるということですね。

 

 仏舎利とは「御釈迦さんの遺骨」が分骨され(石堂寺①石堂寺②)てそれ自体が崇敬の対象となり、その仏舎利を中心に芯柱を立てて建立したものが「塔」―「ストゥーパ」です。

当初はその「御釈迦さんの遺骨」を崇拝するための、真宗的に考えれば「方便」ともいえる「塔」がいつしか「塔」そのものを建てることへの意義にウエィトが移り、「舎利」の存在については二次的になってきたとのかと思います。

 

 しかし、そのことはやはり本末転倒、本来「舎利」があっての仏塔です。よって「舎利の主張」がなされるのです。

三重塔・五重塔、宝塔などそれを建てる理由は「舎利」を通した釈迦への崇拝ですので名目的にでも舎利の存在が必要なのです。

 

 そしてどちらの仏塔・舎利殿等建築物でもその「舎利」についての存在は大抵が「秘密」です。「ある」ことが有意であって、ただそれだけなのです。

よってそれが本物なのかニセ物であるかなど問題外。

敢えて言えば「ホンモノに決まっている」のです。

時代を経て次々に建てられる「仏塔」の中心のそれぞれに釈迦の遺骨・遺灰を分骨できるだけの「量」がそもそも有りえませんし。

 

 よって、宝石や砂金等を持ち出すなどの代用品にて「舎利です」と主張し始めたものと。

そもそも聞かされる方としては、それらしくあってそういわれれば、そう思うのみ、知り得る術は無いワケで、極端なことをいえば誰の骨であろうが検証方法など無いのです。

 

 よってやはり仏舎利は「ある」のは当然ではあるものの、それについては無干渉、語弊がありますがもはや「どうでもいい?」ことのレベルになったと思います。

そうなると崇敬の対象はもはやその建築物に。

仏塔と言われる五重塔などがそれですね。

 

 奈良から平安期までの仏教と鎌倉以降の仏教はまったく異質です。鎌倉以前のそれは人口の1%にも満たない?ような限定的な人々たちにだけある教学で、かつ国家のバックアップによって強権力と財力まで備えていました。

要は仏教の本質である「救い」はその一部限定のものであって(以外の者は当然に見捨てられて)備わる伽藍は国家の象徴だったわけです。 

 

 そこに鎌倉期の武士階級が社会の表舞台に出て来ると、貴族的宗教とそれを演出する人々の紡いできた文化が、武士や庶民へのものへと変わっていきました。

現在の私たちの生活に根差している仏教、「鎌倉仏教」の始まりです。最近になって人々の心はその仏教から離れつつあるとはいうものの今なお厳然と「仏教」の主体的役割を演じています。

 

 それらの仏教主体者の変遷(貴族→庶民)は古くから国内にある土俗信仰(先祖崇拝)と重なって我が国独自の仏教へと発展させていったのですがやはりちょうどそのころ辺りから、「仏塔」も仏教権威者―国家から徐々に川下に変遷していきました。

 

 大型建築物の仏塔は徐々に小型化し、仏舎利としての塔は権威としての「釈迦の墓」から個人の墓へと姿を変えていきます。その材質は丈夫で加工しやすい石が採用されての宝篋印塔などへと姿を変えていきました。

木で作られた、より小型で普及型の宝篋印塔は「籾塔(もみとう)」とも呼ばれたように写経などした紙面に籾を包んで納めていたことから、後世米粒のことを舎利と呼んだのでしょう。

 

 仏塔がミニチュア化した宝篋印塔の性質としては美術造形品かつ本来の仏塔として、「舎利」や経典(宝篋印陀羅尼経)等を納めるスペースを設けるもの(林叟院 宝篋印塔)として、装飾を華美にした「術」に傾注したもの、そして死者の遺骨を納めて追善供養をする所謂「墓」とに分かれてきます。

 

 以前も記しましたが資金的に余裕のあるグループにその宝篋印塔の製作が流行ると、川下に行くに従って装飾部分を廃除して五つのパーツの組み立てというシンプルな形状になって大量生産された五輪塔が普及していきます。

より小型化して「五パーツ」が一体化したものも多く造られましたが、現在でもどちらの墓地に行っても新しく造られた五輪塔や宝篋印塔も見受けられます。尚、これらは江戸期以降激減し、墓石の形態は長方体が一般的になってきたかと。

 

 そのように仏舎利としての「塔」は変遷し、その内容物は亡き縁者の遺骨に代わり、釈迦への崇敬はやはりそれを通した「先祖」への畏敬崇拝に繋がって、「私墓」「家の墓」へとなったという図式に。

今はオーソドックスな四角い墓石の後ろにある板で作った「塔婆」(ストゥーパより)は元より仏舎利を収納する意味で「五輪塔」をイメージしていますね。

 

 大抵の鎌倉以降に興った仏教に於いてもその仏舎利形式の名残をとどめて塔婆を建てていますが、私ども浄土真宗には塔婆を建てる慣習はありません。

理由は「仏舎利は勿論、遺骨にこだわらない」という思想が脈々と流れているからです。

当然に「追善供養」という考えもありません。

 

 この真宗の思想、その考え方の基本は開祖の親鸞聖人の遺語

 

「某親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし」

                    (改邪鈔)

 

でありますが、元々は御釈迦さんも同じことを仰っています。

 それは

「無常」(死)こそ必然であり、拠り所とは死への畏敬では無く「教え」(経典)であって、釈迦亡きあとは「怠らずに弁ぜよ」といって追善供養をしろなどとまったく仰っていません。

 

 本願寺の創建もそうですが、川に流せと言われても「そういうワケにもいかない」ということから後に残った人々が宗祖(釈迦も親鸞も)の意を拡大解釈あるいは逸脱し、日本国独自の宗教観と合致して今となったというところでしょう。

在家と寺との関わりが「教え」よりも「墓」(先祖供養)にウェイトがかかっていて、寺の方もそのことに大いに胡坐をかいてきたという姿でもあります。

 

 何が違うかと言えば、真宗的に言えば、

「亡き人をご縁として今私自身が生きているという実感を得て、より良き人生を歩む」ということですね。

亡き人への尊敬は持ちつつも軸足は「現世にある私」のこれからの歩き方、指針を模索する場が仏教道場であるということです。

墓参をご縁にしながらでも仏の話に耳を傾けて欲しいというのが私のスタンスです。

 

画像は「箱根山宝篋印塔」(重文)。

大和の石工大蔵安氏の名と永仁四年(1296)の銘があります。

この塔は別名「多田満仲塔」とも呼ばれ、墓の主は清原元輔(末の松山)とも懇意にしていたといわれる多田満仲(源満仲913~997年)伝承です。

清和源氏繁栄の基礎となる武士集団のさきがけで、酒天童子退治で有名な源頼光の父でもあり、この箱根の奥深い山の中(場所はここ)にあるのかは不詳ですが、その威光から旅人の安全を祈願したものかも知れません。

高さは3.6mと威圧感バッチリです。

笠の四方には宝篋印陀羅尼経が刻まれて塔身の北面に如来坐像が彫られているのが特徴です。

 

「無い頭の思量」は明日以降に記します。