石塔・石仏に思わずニッコリ 近江石塔寺

昨日は、親鸞聖人の石塔を引き合いに出して「墓石・石塔とはいかに」と真宗ならではの考え方を記しました。

やはり石塔といえば鎌倉期の墓標として、ざっとリッチな人は「宝篋印塔」、中流階級は「五輪塔」というのがオーソドックスな墓碑の姿でしょう。そして財力(権威)によってその「大きさ」が変わったということでしょうか。

 

 平安時代以降になると人々の墓への意識が強くなったと思われます。ある程度の財がある者ならば縁者の「その死」について何らかの「標」を建碑したいと思う気持ちが起こることは当然でしょうね。

 現代の如く海山に散骨するという発想とはまったく異次元のことだと思います。

底辺層がやむにやまれず遺体を山中に放置して鳥獣に食べさせたり、河に流したりすることは別段で、それでも自然の「石」を置いてその「標」(ここでは「しるし」)としたのが墓標の始まりでしょう。

 

 当時は仏教各派の宗旨的流れについて「墓石の拘り」は殆ど無いといってよさそうで、その多くが「五輪塔」という形にて石材加工を行ったと思います。

 

 当流として宗旨の違いや他宗との差別化についてその「個性」をいよいよ発揮して成長していった時期は室町以降、蓮如さんが真宗哲学を大いに流布された頃からです。

 親鸞聖人も山は降りてしまったものの当初は天台教学を修した僧だったこともありましたし、自らの死後の「標」についてはハッキリ言って「どうでも良かった」ことは確かでしょう。

そして五輪塔形式の石塔が建ったのは紛れもない事実ですし、そのこともいたって理解ができるところです。

 

 さて「石塔」―「せきとう」というと、北条仲時以下432名がその境内で自刃した近江番場の蓮花寺が思い浮かびます。

彼らの「生きた証」でもある五輪塔が並んだ姿は圧巻、そちらにあることのその理由も含めて強烈なインパクトがありました。

 

 しかし、こちら近江には今一つ、殆どが無名の人々ですが、それはそれは「夥しい」という言葉の他は無いほど五輪塔がズラっと並べられたお寺があります。

 

 その名も「石塔寺」。「石塔」は「いしどう」と読みます(場所はここ)。
石塔の寺というくらいですから量としては千を超えて万の域のようです。数える気がおこりません。

 

 正式名称は「阿育王山(あしょかおうざん)石塔寺(いしどうじ)」。

聖徳太子の建立伝承のある天台宗のお寺で東近江、蒲生の地のはずれ、石塔という場所にあります。

 聖徳太子伝承は全国に多く残っていて真偽についてはあまりあてにはならないと思いますが、伝承によれば聖徳太子が近江に48か寺(弥陀の四十八願)を建てると発心しついに48番目として建てられたのが石塔寺で、満願したということから当初は「本願成就寺」と称していたようです。

 

 初めて見る人はその五輪塔の数に圧倒されることでしょう。

階段を上る左手に並んだ五輪塔群は序の口、上りきった開けた場所には「阿育王塔」と伝わる三重塔とそれを囲むように並んでいる五輪塔群と墓標たち。

 

 そちらの朝鮮半島系と一目でわかる三重塔は一見古そうには見えませんが奈良時代前期の建立と云われ、石材(花崗岩)の三重塔としては我が国No.1の大きさ(7.5m)を誇り、重要文化財に指定されています。

当時、湖東には多くの渡来人が居住していたことから朝鮮半島色が出ていることがうかがわれるのも当然です。