小川 会下之島(こがわ えげのしま) 焼津 信香院 

東海道「丸子」を「まりこ」と読んだ如く焼津の「小川」は「こがわ」と知らない人には意表を突きます。

知り合いに「小川(おがわ)さん」という人がいたこともあったり、子供の頃から慣れた読み方でしたのでこれには違和感があったものです。最近はようやく慣れましたがワープロで「こがわ」と打っても出て来ませんね。

この地区に住む小学校低学年受け持ちの先生方、「小川」の読みについて教える側も少々ややこしいことです。

 

 小川という地名は小川城で既に記していますが、そちらで触れた「長谷山信香院」について以降長らくそのままになっていましたので、記させていただきます。

 

 今川義忠亡き後、息子氏親と妻北川殿を伊勢宗瑞(北条早雲  石脇城① )のバックアップとともに保護した丸子の斉藤氏とこの小川城の長谷川長者との高草山を隔てた点と点は今川氏親を惣領とするためのライフラインでした。

 

 家督争いは氏親の勝利となって今川家はこれまでに無い繁栄期安定期を迎えるのですが、昨日記した丸子に草庵を結んだ宗長もこのラインを行き来して長谷川家の饗応を受けるなど、連歌会への参加は確実でしょう。

 

 さて標記、「会下之島(えげのしま)」は焼津市の地名で

現在の小川港のある辺りです。

焼津は「島」がつく地名が結構ありますが、やはり水害による平坦な地の「浮島」を想い起こしてしまいます。

 

 この「会下之島」の「会下」とは会座(えざ)に集まるその門下ということで特に禅宗や浄土宗など修行する場所がそこにあった、要は道場、言い換えれば「寺院の存在」を表しています。

 

 その道場が「長谷山信香院」でした(場所はここ)。

開基は小川城の長谷川長者、長谷川治郎左衛門正長と。

こちらのお寺も永禄十一年(1568)の武田信玄の駿河侵攻の際に焼き払われています。

長谷川正長は今川家中が分裂消滅後、徳川家康に従がって、成瀬正義の亡くなった日と同日(元亀三年1572)、三方原にて三十七歳で討死しています。斉藤宗林も思い起こします。

 

 長谷川正長には、長男の正成、次男宣次、三男正吉と三人の男の子がいたそうで、次男宣次の八代に平蔵宣以(のぶため)が出ています。彼が旗本で火付盗賊改役、池波正太郎の「鬼平犯科帳」の主人公「鬼平」でした。~門前案内板より~。