小川城

拙寺のお檀家様に焼津市小川在住で長谷川姓を名乗られる方がございます。

「小川~こがわ」の「長谷川」といえば「駿州山西の小河の法永」(今川記)にある「法永長者」の長谷川政宣。

小川城主です。

 

しかし拙寺の長谷川氏は相良の菅山ご出身ですので関連は薄いかも知れません・・・。

 

どこの地でもいえることですが平城として存在していた城跡はまず遺構は残りません。

条件が良ければ公園や学校、庁舎として残されていることもありますが、立地の都合で今となっては殆どが宅地化されてしまっています。

この小川城(城というか館)はまさしくその「平城」ですので当然今は住宅地のど真ん中。

碑がぽつんと建つのみで周辺はその風情すら残っておりません。

 

今川義忠が塩買坂で討取られ、今川館には義忠の嫡子龍王丸の代行として今川(小鹿)範満が入りました(龍王丸が元服するまでの間)。

その際、法永は伊勢宗瑞~新九郎(北条早雲)に依頼されて、義忠の正室、北川殿と龍王丸(のちの今川氏親) を保護します。ここに相続争いがじわじわと表面化していきます。

 

この時代は幕府と関東に下った将軍家の近親者の一族(どれも下向させられたというか、将軍になりたいのになれなかった等、腹に一物のある実力者) が関東で、同系の同じような名どうしで反目したり、くっついたり滅ぼしたりを繰り返した時代で登場人物を整理するだけで頭が痛くなりますが、簡単に記しますと・・・

 

足利政知(初代堀越公方)は範満の母方の父である上杉政憲を、また関東管領上杉は扇谷上杉家の太田道灌を範満支援の兵として駿河に向かわせます。

しかし関東管領の力が及ぶのを嫌った幕府は伊勢宗瑞に龍王丸の将来の家督継承を確約する足利義政の御内書を発して新九郎を推して和議を成功させます。

 

それでも龍王丸元服までの「期間限定の約束」が反故にされて家督移譲の恒常化の危惧がいよいよ本物となります。

そこにタイミングよく太田道灌が主君上杉定正に伊勢原で謀殺(1486)されて範満の有力なバックを失ったこともあり宗瑞は一気に今川(小鹿)範満を攻め滅ぼしました(1487)。

 

ここに龍王丸・・・今川氏親の継承が確固たるものとなりました。その氏親の正室が義元の母、寿桂尼です。

今川氏親、北川殿、伊勢宗瑞(新九郎)の三者が一堂に会し(考えてみれば血縁者一門)、駿河を制するために虎視眈々と伏した場所がここ焼津の小川城でありました。

 

法永~長谷川政宣の子孫はのちに徳川方に仕え、やはり三方原の戦いで一族多数討死しています。遺児たちは家康に厚く保護され後世その家系に江戸、火付盗賊改方(「鬼平犯科帳」)の長谷川平蔵が出ています。

 

天文4(1535)年に生まれた政宣の孫、長谷川正長の墓所が焼津小川港に近い長谷山信香院にあります。

そちらのウェブページには長谷川家の系図が記されていますので検索してみてください。