「廻れ」と雖も正攻法  丸子の吐月峰

「急がば廻れ」(昨日)は、別に「遠回りの勧め」をしているワケでは無いですね。

本来の意味は普通通り「東海道を進め」と言っているだけなのです。途中で変な色気を出して、ラクをしようとすればそれまでの苦労もすべて「台無しになることもある」ということを言っているのでしょう。

 

 何かやり遂げるに「リスクをとる」という事も必要ですが、即致命的となって、かつ人任せの判断(時として人災)により左右されるものですから、船行は気軽な反面「その時」は酷い結末となっているのは現代にも通じるところ。

 

 それは「リスク」と感じられないでいる「リスク」として見聞していますので、当時のレベルでは人によっては尚更その「危機」について感じ入るものがあったでしょう。

 

 さて、あの老若男女誰でもが口にしたことのある「急がば廻れ」は連歌師「宗長」の歌中にある言葉です。

柴屋軒(さいおくけん)宗長は駿河は島田生れ、先達は「静岡県人」でした。

 

 島田の遁世僧が何故にして江州琵琶湖にて京都に上がる街道の人々の動きについて歌にしたのかといえば、彼は当時駿河では著名人、今川家の庇護の下、活動した人でした。

 

 当初は今川義忠の配下として、後の今川義元の太原雪斎の如く、軍師的戦略家としての政治力は持つことは無かったものの、義忠を補佐する立場としてあったのかと思います。

文明八年(1476)宗長28歳の時、義忠が塩買坂に討死すると不安定期を迎えた駿河を去って京都に向かい、「宗祇」の元、連歌の道に本格的に入りました。

同時に一休宗純の大徳寺にも参り一休晩年、没する(1481)まで師として仰ぎます。

 

 彼の名、「宗長」は上記二人の名の「宗」からきていることも大いに推測てせきます。ちなみに「長」の字は駿府丸子や小川で世話になった長谷川長者の「長」と考えるのも不思議では無いのかと思っています(ブログ「斉藤宗林の死」)。

 

  義忠は応仁の乱期に駿河より上洛して、伊勢宗純(北条早雲)の妹(姉)の北川殿を正室に迎えたであろうことは歴史上常識的な解釈ですが、おそらくそれらの手勢や脇従として宗長も義忠に従がっていたことも考えられます。

そうなれば東海道の往来は慣れたもの、自然にその「矢橋の近道の件」は身を持って体感していたことでしょう。

 

 連歌とは室町期に爆発的に流行した歌文芸で、二条良基や宗祇らが著名です。

応仁の乱の頃は特に都の荒廃がありましたが、全国的な動乱ともなって人の流れも生じ、京文化の地方への流出に繋がりました。

一大ブームともなった連歌の著名連歌師ともなれば引く手あまた、宗祇や宗長は地方各地の有名人の主催する連歌会に客として、師匠として招かれました。

 

 所感ですが連歌ほど教養の必要な遊びは無いですね。

連列していく歌の並びや、歌に取り入れる題材要素、関連性等、色々なルールがあって私の頭では到底付いていけません。

守護大名、戦国大名と呼ばれる人たちらにもそのお遊びは広がりましたが、きっと皆さんは幼少期から武芸のほか、連歌も「将来恥をかかないために」教え込まれていたのでしょうね。

 

 さて、柴屋軒宗長は明応五年(1496)、氏親が家督を相続安定期を迎えた今川家に再び招聘されます。

永正元年(1504)には幼き氏親と母北川殿を匿っていた斉藤安元の丸子城根古屋の泉ケ谷に柴屋軒という草庵を結び閑居しました。

 

 宗長はそちらをベースに各地の有力者の元で自由な感覚で連歌会に出席していますが、これは勿論氏親の外交担当を兼ねての活動であったことでしょう。

 

 こちらの草庵は宗長が築いた庭が著名です。

京都銀閣風のミニチュア版、あくまで京風に拘り、西に横たわる天柱山を借景、枯山水や月を愛でるための庭があります。

泉ケ谷の地名の通り、水も湧き出ています。

 

 今は「天柱山吐月峰柴屋寺」(てんちゅうざん とげっぽう さいおくじ  場所はここ)というお寺になっていますが、こちらは竹の寺としても有名で、竹は京都嵯峨より、また茶は宇治より宗長が移植したと伝わっています。

宗長は東山文化の常道、廻り道はしなかった人でした。

 

 先日、丸子は「駐車場が無い」とは記しましたが、こちらのお寺への来訪であれば駐車場がありますので車を停めることができます。

 

 画像①は宗長の像。

その左側には連歌の師匠の宗祇像、右側には「丸に二つ引両」が記された厨子が。

扉は閉まっていましたが今川氏親の像とのこと。

葵紋の幕は後世徳川家の庇護を受けたことによるものでしょう。