田中吉政は大垣城にいなかった 攻城神経戦

晩年は洗礼を受けてキリシタン名(バルトロメヨ)まで持った田中吉政は元々は一向宗門徒系の農民あがりという出自でしょうか。

 彼の出身といわれる近江という地は蓮如さんの布教の甲斐があって爆発的に門徒が増えてこちらから越前加賀にかけては「真宗地帯」の一画であったからですね。

まぁその推測の根拠としては徳川時代に城持ち大名となって筑後柳川に移った後に京都で亡くなりますが、当初の田中家菩提寺が真宗寺院であったことからです。

 

 彼の出生した近江(長浜 三川村)は鉄砲の産地で有名な国友も近くで、その手の関わりから秀吉が長浜の「城持ち」になった時分に家臣として取り立てられたものと思われます。

父は田中惣左衛門重政、母は国友与左衛門という人の姉で、「硝煙」の臭いもプンプン漂います。

私の勝手なイメージですが彼はかなりの銃マニア、紀伊の鈴木孫一の如くの男だったら当時の秀吉が引っ張ってきたのは合点がいきます。

やはりその頃観音寺の「お茶」の件で取り立てられた石田三成と、まさに昵懇の仲になったと思われます。

何しろ同郷同士で、出世の仕方も同じようなものですからね(場所はここ)。

 

石田三成と同様に秀吉から普通以上に可愛がられたと思われるのは、あの秀次事件ではまったくの御咎めが無かったことです。

むしろ加増されるという摩訶不可思議があった人ですね。 

 

近江八幡城(130901 130902)の八幡堀は彼主導の普請といわれるように当時、次期最大主導者(関白)を継承、名実ともに豊臣家を引き継いでいくはずだった豊臣秀次の筆頭の家老であったほどの人だったのです。

殆ど城をはなれている秀次の八幡山城城代として政策の中枢に居て、他に領地内分散して城持ちとなった家臣たちとも一線を引いていました。

 

さて、おあむ物語冒頭で「田中兵部どの~」と城外から夜中に声があがって恐ろしかったとありますね。

しかし昨日記しましたように大垣城包囲陣に彼は参加していません。

家康の命で三成討伐と探索のために佐和山城を囲んでいました。三成を捕縛したのも彼の手によるものですね。

よってこのおあむさんの記述は無論誤り

(現在大垣城の聞き書きは間違いで実際は佐和山城の出来事だったというのが通説とのこと。この「田中兵部どの~」が佐和山を決定づける場面だったようです。おあむさんの聞き間違いは大垣城ではなく佐和山城というところ。)

 

そのことから思えることは

①大垣城に籠るのは近江出身者が多く特に湖東からこのあたりまで「田中吉政」の名声は響き渡っていた。

②それも国友のイメージから銃火器を駆使して戦闘能力は際立って強いという感覚。

③何処の誰ともつかぬ名を示すより「恐ろしい」と衆人認知された者の名を使用。

④夜中に叩き起こして寝かせない(先日のたけ※さん)のは昔からイヤガラセの常套手段。

 

 これは城攻めの一つの手段だと思いますが、面白い場面です。いわゆる神経消耗戦で寝不足も誘い、戦意を喪失させて早く開城させようとするものですね。

 

 ちなみに昨日も記しましたが、そんな中、この城の三の丸の守衛をしていた相良頼房は城内で暴れまわって大垣城を開城させ、家康に安堵されています。

物凄い要領の良さを感じますが、相良の場合は上杉攻めに参加しようとした東上中に、大垣城に取り込まれてしまっていたという経緯があったのです。

そこのところの状況も加味されたのでしょう。こんな「裏切り」「保身」といった心変わりのようなところも大垣城陥落スペクタクルの中の面白さです。

 

 画像は関ヶ原の田中吉政の陣。家康の首実検の陣場のスグ近くです(場所はここ)。何故か付近に「田中」という看板が目立ちます。