森の大洞院さん 曹洞宗の古刹

森の石松のお墓が佇む、まさに「森」の中のお寺、大洞院(場所はここ)さんにも比較的大きな五輪塔があります。

石松の墓はバクチ好きに人気があって御利益だ何だのと削り取られたり盗まれたり、挙句は鉄格子の中、シャレにもなりません。

日本人はそういうくだらない事、無意味な事に労を惜しむことなく時間を費やすこと多いようで・・・。

墓石を削って何かの効果があるという、まぁ誰かさんがやってるから自分もやるといった簡単で、そして脈略無い根拠レスなノリ(最近軽率な輩の言い訳に使われています 「ノリでやっちゃいました」)のようなものだと思いますが・・・。

 まぁ海外ではまず死者への尊厳が重視されますので、他人の眠る墓石を削り取って「自らの利益を得ん」という試みの例はそうは無いのでは・・・。

それがこの石松さんの墓でいえば「ギャンブルの御利益」ですからね。

何とも人間の煩悩は計り知れないところです。

 

 射幸心を煽るテレビコマーシャルが年末近くともなると流れてきますが、あの1枚300円の数字当ての紙と削り取った石を御内佛(通称仏壇)の引き出しに隠しておけば本当に高額当選金がゲットできると思っているのでしょうかね。

または石ころをポケットに潜まして向かうのはパチンコ屋やギャンブル場なのでしょうか。まったくもって不謹慎極まりないことで唖然呆然とします。当たるのは仏罰であって、むしろ逆にロクな人生を歩めなくなるような気がしてなりませんね。

 

 またこの森の表側(お寺はその「奥」のイメージ)には遠州初詣ともなるとド田舎にも関わらず~失礼、私の住む場所も同等ですからお許しを~酷過ぎる大渋滞を引き起こす小國神社があります。

この件、今年の正月の米倉城行脚でお知らせした通りです。

 

 この小國神社は古来より「許当麻知―ことまち―神社」や「事任―ことのまま―神社」と呼ばれていました。

それぞれの意は前者が「お願い事を待つ」、後者が「願い事のままにかなう」という意味です。

 

この意は、人間の営みというものがいかに自分の意志や望みのようなものとは逆の方向になって、いわゆる「人生こそ苦痛」であるが如くの方向に動くが故であり、それに対して庶民の一縷の「もがき」のようなものが現出(祈願)した場だったということが想像できますね。

 

 ちなみに真宗でいえば「本願」とは、その「願い」の概念は同じでも願う方は阿弥陀さま、こちら人間の方からの願いは何もなし、当方のスタンスはそれこそ―ことのまま―ですが意味が違います。「あるがまま」をご縁として受け入れるという姿勢でした。

 といいながらも買わなければ当たらないアレ、やっぱりお遊びに少々所望したいところです。

 

こちらのお寺は応永十八年(1414)、足利義持(四代将軍)の開創でかつては七堂伽藍の荘厳がそびえたそうです。

石松さんのお墓よりずっと古そうなお墓たちが・・・