借主は石坂周造 6773えん

先日は凛々しい借用書の御姿をお示ししましたが結局はアレ、返済されずに残ったものですね。貸主の布施新助さんと布施家には気の毒です。きっとかなりのダメージがあったことでしょう。

 さて借主の石坂周蔵(宗順)は典型的な「武士の商法」の人だったかも知れません。その起業と夢はスケールも大きくて日本でもその道(石油採掘)の第一人者であり不運もありましたのでその言葉で評価するのは少しばかり酷ではありますが・・・。

しかし不運と言っても単に石油の産出が思惑を外れて当初の目論みが外れたということですがね。経営の方も上手くなかったことはだいたい推測できますね。

 

 石坂は遠州相良に石油発見という報せを聞くやこれまで出資していた長野石炭油会社(明治14年に倒産)を引き上げて相良に赴きます。

そこで「ここならいける」と勝負に出たのでしょう。

なぜなら長野で出る油の質は悪く、相良油田からのそれとは明らかに違っていたからです。

そういう(長野から来た)ところから相良油田の里の資料館で掲示されている彼の紹介に「長野生まれ」と記されているのでしょうか。

誤解がありそうです。

結果的に石坂は良質なれど次第に産出量は減り油井は潰れていきましたので多額の借金を残して相良を去って行ったのでしょう。

 

 彼はあの新撰組(壬生浪士組)の前身である「浪士組」という徳川家茂上洛の警護のために組織されたグループで新撰組とは袂を分かれた筋金入りの「尊王攘夷」を唱えたうちの一人です。

司馬遼太郎の「奇妙なり八郎」でも名のある清河八郎らと活動を共にしていました。

清河八郎は江戸で暗殺されますが討取られたその首を石坂が奪取して逃げています。要は清川一派は新撰組として京都に残った近藤らの反感を買い、また彼らも先鋭化した尊皇攘夷→討幕への道を辿って、佐幕派にとっては放置できない存在になっていたということです。

 石坂はそれ以後投獄されて(五年間)、時代の激変を静かに見守ることとなり、獄中で悶々とビジネスについて思考していたのでしょう。

 

借用証券

一金六千七百七拾三円也

但此償却期限 明治十二年

       同 十三年

       同 十四年

右金額借用候処実正也然ル上ハ前顕償却

 

期日無相違償却可致万一違約及ヒ候時ハ

 

請証人ヨリ代償ハ致依テ連印証如件

 

 

明治十一年七月十八日

 

        借主  石坂周造

 

         手痛ニ付代書 永井次郎

 

        請人  斉藤延世

 

        証人  成瀬蔵

 

   布施新助殿 

 

6773円を現在の金額に試算すると・・・

公式があります、幕末「1円=1両」は確定です。

そして1両を現在の金額に換算すれば最低で6万円と云われています。中には15万円はあったという説もありますが、もっとも時代によって違うはずですね。

 

 そこでその最低金額の6万円を採用して、60、000×6、773を計算すると406、380、000円です。

幕末動乱期を経たインフレを勘案してその2倍としても10億弱(追記 端折りすぎ その計算方式は明治12年では当てはまりませんね)

明治初頭の相良は「活気と消沈」という交互に訪れた事件に踊ったのです。それは多くの人が感じた「儚い夢」だったことでしょう。