勝間田城、牧之原の観光資源と成り得るか

勝間田城の籠城方不利は特に横地城や諏訪原城の立地よりもまして顕著でしょう。

勝間田城は同族横地氏との兼ね合いなのか、開口部は東側で牧之原台地を背後にしています。

横地城( )は同じ牧之原台地の西側に位置して、その西に流れる、菊川や塩の道と呼ばれる街道、「内田」「平尾」「土方」(高天神城)方面まで見渡す西に開けた高台になります。

菊川、小笠川の扇状平地を一望できる位置にありますから両家で台地上の「牧」を護るがごとくの広大なスケールでの配置となっていました。

 そんな中、余程の有事を想定していなかったか勝間田城の縄張りは台地斜面を主郭としていますので、台地上から見ればこれほど攻めやすい城は無かったでしょう。

よって勝間田城への攻め手は台地上から一気呵成に「下り降りるだけ」で何らの苦労も無かったのではないでしょうか。

そういうワケで勝間田一族は早々に決戦地を東西山の砦を選択してまた、城内に残っていた非戦闘員(乳母たち)等、落人の逃亡経路も南東方向にならざるを得なかったのかと思います。

勝間田氏離散の順序としては先に本城が陥ち、戦闘員の分散により抵抗出来ずじまいの砦・城も早々に放棄されて、最後に東西山で初めて戦闘らしい戦闘が起こって決着が付けられたのだと思います。

 勝間田氏があの奥まった台地で無く、早くから決戦地として選択した東西山に本拠を移して勢力を集中していれば案外、今川の台頭に持ちこたえられ、歴史の中で早々に埋もれてしまうということは無かったかも知れません。

 

⑩画像が勝間田城から勝間田川越えに見た静岡空港のある台地。⑪が逆方向、勝間田城のある台地。⑫龍眼山城(右上)の突き出た台地の奥に東西山、そして相良方面。

以下、城址にある看板を貼りつけました。

表題に関しては「ちょっと厳しい・・・」かも。