敗者の歴史はとても曖昧に 勝間田家乳母

勝間田家由来の「カツマタ」はその字や読みを微妙に変化させて各地に残っていますが、当地の歴史から姿を消した時期についてはやはり今川方の資料を参考にする他は無いでしょう。

 家としての存続が滅んでしまうということは、その家に残る伝承は有形無形を問わず勝者の管理(略奪)となり、有価値無価値の選別眼によって不要と判断されたものは消え去る運命にあります。

勝間田・横地を滅ぼした今川家ですが、義元亡きあと氏真の時代になって武田勢に駿府の館を追われました。戦国の倣いですね。

その場で今川家が滅亡しているわけで無いにもかかわらず、未だその城館の位置が確定できていないくらいです。

武田側は略奪の汚名を避けて、すべてのものを焼き払ったと聞きますし、おそらく家康による駿府の城普請も武田方が退去したあとのただの焼け野原に何の考えも無く行われたのでしょうね。

 

 戦いに負けるということは極論「滅びる」ということであり滅びるということはこれまで築き上げたものが全て灰燼に帰すということになったわけです。

戦った相手が強くて手強かったりすれば滅ぼされた後に、さらに根も葉もない醜聞や作り物語を流布され、亡くなったのちにまで貶められるということは良くある話です。

 

さて、ここ勝間田氏の終末期に関わる確定的な情報は無いというのが現状で、やはりここでは勝者今川義忠方の資料から推定する他はありません。

義忠が塩買い坂で討死したのが文明八年二月(1476)41歳です。

これが勝間田・横地の両城討伐成功の帰り途でした。

勝間田城の攻略が先と考えるのが普通ですから、~横地を先に攻めることは挟み撃ちにあい退路を塞ぐという理由から無かったとは思いますが今川義忠は掛川古城(またはこちら)を朝比奈氏に築城させ菊川方面の抑えとしていますので「どちらが先か」は判然としません~だいたいのところ勝間田城陥落は1475年の夏から後半の戦いの中でのことと考えます。

 

 戦略上、戦争を始めるに相手方領地の田畑の収穫期を軍の兵糧としてあてにすることも大いにあり得ますので、時期的にはそんなところが正解でしょうか。

 ただし、今川勢が取った戦略は後の世に出てくる信長や秀吉の「なで斬り」という一族郎党完膚なきまでに消滅させるというような残虐性は無かったようで、その後も両族残党が再興を試みて~今川家としても御屋形様が討ち取られて泥沼のお家騒動に発展しつつある時でしたので~土地に残り散発的にしろ今川家に抵抗していたこともあって、両族の正確な遠州からの消滅時期はハッキリしないところです。

 

 かつてそう昔では無い頃、旧榛原町、龍眼山城の西側の麓の道路際に老松の大木が立っていました。

仁田の交差点から50mほど海側です(場所はここ)。

 道路拡張と法面整備の理由から枝払いをされたあとに立ち枯れしてしまい現在松はありません。

松は大きくて立派に育って巨大化しますが、人間が手を入れることによって枯れてしまうことはよくある話です。

 小さな祠が建てられて中には日蓮宗系の仏像らしきものがいらっしゃいます。以前はしっかりとした看板が立っていてこの松の木の由来が記されており、縁日には周辺住民に僧侶まで集まって簡単ながら法要がとり行われていたとのこと。

だんだんと看板の更新はされずに人々から忘れ去られようとしているのかな、と思っているところです。

 

この松は古くからこの地では「乳母松」(うばがまつ)と呼ばれていました。

勝間田城内の子供たちを見るある乳母が落城間際に姫や子供たちを連れて勝間田川沿いに海の方向へ逃げる中、持病の悪化からこの地で息絶えたという言い伝えです。

その亡骸の上に松を植えたそうです。

 姫様のうち近くの池に身を投げたという場所も残っているようですが、その乳母の適切な誘導のおかげで多くの者が助かったという御礼の姿勢を後世になって華を手向ける場所を建てることによって表したものと考えます。

これも東西山の戦場に双方軍縁者がほとぼりの冷めた頃合いを見てやって来て、首なし遺体を弔い墓碑を建碑したのと同様です。

 

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コメント: 19
  • #1

    勝間田信一 (月曜日, 11 8月 2014 02:49)

    当時の先祖の人達の事を更に詳しく知りたいです。
    今は御殿場の地区に勝間田家が多くいます。

  • #2

    今井一光 (月曜日, 11 8月 2014 08:01)

    ありがとうございます。
    勝間田氏については、その資料の僅少さから、詳細は判然とせず、わからないところがたくさんあります。
    唯一かつての御当家繁栄の遺構のある牧之原は市の財産として調査と整備を行い、将来に渡って検証を続けようとする姿勢はある程度示していますが、遅遅としており、その現場作業も思うように進まず、私たち「知りたい」市民の気持ちをやきもきさせています。
    「過去のことより今」的思考にウェイトのかかる現代にあって地元であってもそのようなものです。

    しかしながら当地は勝間田氏や勝間田城の資料に関して地元であるが故、他所より見聞する機会があります。
    今後も、私が知り得たことを適宜記させていただきます。

  • #3

    勝間田美智代 (土曜日, 23 4月 2016 23:01)

    旧姓が勝間田で、御殿場に実家を持っています。勝間田家には古くか言い伝えられている事がありまして、今でも守られている事が有ります。それは、「暮れに餅をつくと赤く染まる」と云われ、年が明けてからお餅をついたり…と、落ち延びている時代に息を潜めて生活していた名残なのかもしれません。その当時は昼に煮炊きもしなかったと聞いています。
    様々な言い伝えが今も尚、残っているのです。

  • #4

    今井一光 (日曜日, 24 4月 2016 15:56)

    ありがとうございます。
    凄い伝承が残っていますね。興味深くまた、驚かされました。
    きっとご当家のご先祖様は今川家が駿河から一掃されるまでの100年以上の間
    代々に渡って忍ぶが如くの生活を送っていたのですね。
    100年もの間、質素で目立たないような生活を送り続けていれば、それこそそれが
    正当な生活と化して「家の在り方」として当たり前のことと固まっていったのでしょぅ。これまでのその生活感が絶えることなく、伝わっているということは奇特なことと思えます。

  • #5

    洋子 (木曜日, 01 3月 2018 21:07)

    祖母の旧姓がカツマタと言います。
    祖母から聞いた印象深い話しですが、「定勝寺は、先祖が闘いに敗れ出家した際に開いた寺で、定勝寺の名前はカツマタに由来する。長野県で3本の指に入る寺だ」
    「カツマタは、城持ちだったが、息子が3人いて3人とも討ち死にをしたので城を家来に譲り出家した」と祖母は話していました。
    祖母の実家にはカツマタの家系が記された巻物があり、火事など万が一のときはまずこの巻物の家系図を持ち出すように番頭にいつも話していたということです。
    祖母のカツマタの本祖は源氏だとも聞きました。子供の当時に源氏の下の名前も聞いたのですが忘れてしまいました。
    不思議でならないのは、「早稲田大学を出た長男(祖母の弟)を長野県から静岡県の寺へ養子にやった」ということです。たった一人の男子だったので祖母の実家は女子が婿を取って後を継ぎました。私の父は子供のころ、静岡のこの叔父のところに祖母に連れられて行ったことがあると話していました。
    そんなに遠くに養子に出したのは、暗にカツマタの血筋を守るためだったのでしょうか?静岡が総本家だということでしょうか?
    勝間田氏は落ち延びている間に寺を隠れ蓑にしていたという可能性はあり得ませんか?

  • #6

    今井一光 (金曜日, 02 3月 2018 20:02)

    ありがとうございます。
    各件、とても興味深いお話ですね。
    勝間田氏が各地に離散するにあたり、特に箱根周辺に定住してしばらくの間雌伏の苦渋を飲んだ事は推測できるところです。
    信州にもその系の流れがあったことは当地で行われる勝間田家の供養祭への「子孫」といわれる方の登場により歴史上の遠州と信州のパイプというものを感じたものでした。
    中でも勝間田家の「巻物」の中身について興味があります。
    家系図というものは後世の改変追記がつきものですのでその信憑性については疑ってかかるべきものですが、時代・経緯・矛盾有無について各方向からの検証をすべきと存じます。

    定勝寺の由来が勝間田にあるという件も面白いと思いました。
    現在のお寺の宗旨は臨済宗で、時宗を特に敬愛した勝間田氏ですが「寺に入る」ということは古来より「仏門に入る→世を捨てる」ことでとりあえずは敵対勢力からの追捕は逃れられます。信州は今川領国外であったとしても平穏無事は保障されたものではありませんので寺に入ることは有意義なことだと思います。
    血統を繋げるという意味では厳密な意味で「寺に入る」ことになりませんので外部に対する隠れ蓑とはなったことと思います。

    また「静岡のお寺に」の件、詳細がわかりませんし、プライバシーにかかわることで明白にはできないと思いますが、もともとの御家伝承の思いに「遠州の地へ」の気持ちがあったのかと思われます。

    よろしかったら相良に遊びに来てください。

  • #7

    勝間田 (日曜日, 11 3月 2018 20:34)

    まさか自分の苗字にこんな歴史があったとは!
    自分でも驚きです笑

  • #8

    今井一光 (月曜日, 12 3月 2018 08:48)

    ありがとうございます。
    是非に勝間田氏の栄華のあと、勝間田城址のある牧之原市へお越しください。

  • #9

    勝又健ジ (土曜日, 24 3月 2018 11:23)

    父親の実家の家紋は揚羽蝶でこれを誇りにしています。屋敷内には13枚の菊の墓があったようで父はこれをよく自慢してました。揚羽蝶は平家の家紋のはず。勝間田一族は清和源氏なのにどういうことでしょうか?また御殿場の勝間田さんはお寺を持たないと母親から聞いた記憶があります。勝間田城の再調査、楽しみです。

  • #10

    勝又健ジ (土曜日, 24 3月 2018 11:33)

    東京で知り合った旧姓勝間田さんからの情報では、彼女の先祖は信州で城持ち、武田が滅亡して御殿場にきたと言ってました。信州との関連を示すものではないでしょうか。

  • #11

    今井一光 (日曜日, 25 3月 2018 07:51)

    健ジ様、ありがとうございます。
    「勝間田一族は清和源氏」の件そちらはあくまでも歴史の推測にすぎないかと。
    私の方では勝間田・横地そして井伊まで「藤原南家」というのが頭に刷り込まれてしまっています。
    また歴史の流れの中で平氏出自説も当然のこと。
    滅亡の憂き目にあった勝間田氏の歴史はそこで消されたわけで伝承が複数あるのも致し方ないことですね。存続栄華を誇った徳川家でさえ家康は家系図をいじくりまわして
    出自を源氏に改めていましたね。
    系図・家紋に関して大いにそれを推測するに価値あるものですがご先祖様のどなたかがどこかで変えたということも考えられてしまいます。
    また、勝間田家はその家臣団含め遠州離散のあと、各地で雌伏、今川滅亡ののち「勝間田」
    再興と名家の名を維持したいということで落ちて行った者たち一同が、その勝間田姓を名乗りを挙げた経緯があったとも聞きます。

    信州の勝間田に関しては小生の勉強不足で、恐縮ですが仰るようなことから考えると縁者を頼って御殿場に向かったのでしょうね。
    勝間田氏に関してはわからないことばかりで、各家に伝わる文書や墓そして家紋・家系を調べていけば点と点が結ばれて一大研究となり得ますね。
    またご調査の結果、新たな発見がありましたらご教授ください。

  • #12

    勝又 照 (月曜日, 30 4月 2018 19:03)

    興味深く拝見しました。
    自分は、裾野市出身ですが、子供の頃は同じ学年に「勝又」が数名いました。
    沼津の高校時代になると、御殿場の「勝俣」や沼津の「勝間田」が目立ちました。
    興味深いのは、上記の健ジさんと同じで、家紋が揚羽蝶です!
    なんか、興奮しました。

  • #13

    今井 一光 (月曜日, 30 4月 2018 23:24)

    照 様 ありがとうございます。
    拙ブログにたくさんの「かつまた」様が集まってとてもうれしく思います。
    また情報をお寄せください。

  • #14

    K.S (土曜日, 19 5月 2018 11:54)

    はじめまして。
    勝間田家について、とても興味があります。
    私も御殿場出身で現在はカツマタに近い苗字を名乗っています。祖母の話ではもともと裾野市にあるお寺の分家らしく、御殿場にある実家の周囲もカツマタさんしかいません。
    また、小山町から嫁いできた母の旧姓も勝又でした。
    また勝間田家に関して気になることは、徳川家康の側室で二代目将軍である徳川秀忠の母、西郷局は勝間田家にルーツがあるということも聞いたことがありますが本当なのでしょうか。
    もう1つは勝間田家と信州のつながりに関してです。 大河のドラマの女上城主直虎でも出てきて、井伊直政の父になる直親を信州のお寺に逃し12年間世話した今村藤七郎は、元々勝間田家の人ということも信州と勝間田家のパイプに関係があるのでしょうか。

    長文失礼しました。

  • #15

    今井一光 (土曜日, 19 5月 2018 22:05)

    ありがとうございます。
    確定的ものはなく殆どすべてが推測の域をでていないという御指摘がありましょうが
    やはり基本的には藤原不比等の長男武智麻呂からの流れ(藤原南家)、がキーワードで
    しょうか。

    名のり(勝間田・・・)は状況によってあるいは養子縁組によっても変わっていきますが
    分家であっても「家」の継承は当然であり、特にその消滅に関しては惜しまれるものです。男子複数出生が好まれる時代に家督継承者以外の男子は別姓をなのることはよくあることであり本家継承者が後継者をなしに亡くなるなどの場合、元の姓に戻して家に戻ったり、新地開拓等遠隔地に住まう場合などは地名を名のりにするなどしていても本家が無くなれば元々の名乗りをするなど様々だと思います。

    特に以前から西郷局の父親が「戸塚」であると言われていますが、それに関してはやはり藤原南家出自とも言われています。
    ブログにても勝間田近隣の戸塚地名(2015年5月6日と5月7日)について記していますが
    戸塚氏と勝間田氏は縁戚関係含めて主従の間柄であったことは当地ではよく知られた件で、その戸塚氏が勝間田氏滅亡の際、各地に転じた際その勝間田に復姓したり新たに勝間田の名のりをあげたと言われています。

    井伊家の藤原南家説は小和田先生の説としてもありますが(ブログ2016年11月15日)
    その井伊家に今村家(通説勝間田出自)がその家臣団として組み込まれていることは不思議なことではありません。
    きっとそのような「一族」の誼とそれらネットワークから「近くも遠くもない」信州という地に逃がしたのではないのでしょうか。
    ちなみに当地には勿論「勝間田」は散見されますが「戸塚」と「今村」は結構目立ちます。

    推測のみで申し訳ありません。今後ともよろしくお願いいたします。

  • #16

    勝間田譲二 (火曜日, 26 2月 2019 13:12)

    お正月にお餅を食べることができないので、御厨そばを食べていました。濃い目のしょうゆ味にニンジンや鶏肉が入っていました。懐かしい味です。
    また地区内に光真寺というお寺があり、そのお寺の前に江戸s時代ではないかと思われるご先祖様のお墓がたくさんあります。我が家のお墓ということで、毎年お盆にはお参りしています。

  • #17

    今井一光 (火曜日, 26 2月 2019 20:44)

    ありがとうございます。
    御殿場では御厨そばを正月に食し餅は食べないという風習はきっと先祖伝来の言い伝えが元なのでしょうね。
    餅を食べるにはその仕込みからかなりの手間がかかり取るものも取らずに慌てて逃げてきた者たちの「正月」を意味してそれを代々伝えていくというものでしょうね。
    光真寺というお寺の名称についても今の宗旨は浄土宗のようですが、私の勝手なイメージではありますか時宗の匂いがしてきます。

  • #18

    勝俣義紀 (日曜日, 10 3月 2019 23:45)

    勝間田一族の歴史を興味深く拝見しました。
    私の祖父は富士吉田の出身ですが、そのルーツは御殿場だと聞いてました。
    以前、火野正平さんの番組(日本縦断こころ旅)で牧之原市の勝俣という地名が紹介されていたことから、もしかして、わが家のルーツと関係あるのか?と調べた時に、勝間田一族の歴史と勝間田城の存在を知りました。
    昨年、富士登山の帰りに息子と勝間田城址を散策し、思っていたよりも広大な造りであったことや、その後の流転の歴史に感慨深いものがありました。
    今後も新たな史実が発見されることを期待しております。

  • #19

    今井一光 (月曜日, 11 3月 2019 17:25)

    ありがとうございます。勝間田氏の歴史を紐解くには案外と今「カツマタ」を名のる家々が代々伝えている事象をまとめて行くことが近道になるかも知れませんね。
    このちっぽけなブログにて皆さんが反応くださることからそううかがえます。