首実検 対面・検知と見知・配見

「首実検」という催しは戦いの勝者の最大のイベントです。

三尺高い木の上」の獄門、刑死とはまったく性格を違にします。

 

「勝負は将の運に依りて討つ事もあり、又討たるる事もあるべし・・・」の如く、下手をすれば逆に自分の首が首台に載せられる真逆の立場となる可能性もあって、「勝ち」=「負けなかった、生き残った」という安堵と余裕の中に、厳かに執り行われます。

自分の首がいつあげられてもいいように、鎧武者、母衣武者は顔を美しく手入れし髷を整えて香をつけ時にはお歯黒の処理など行って、「その時」に備える覚悟があったそうですから「勝ち戦」となって相手武将の首を差し出す段となればやはり嬉しさも格別でしょう。

 「勝利」こそが生活の糧である中、戦(いくさ)ばたらきする兵(つわもの)は、そこでの手柄の大小が将来の所領拡大、安堵と出世が決定しますので緊張感張り詰めるも心晴れやかです。ここではそういった「仕事」への評価が下りますのでただの「勝ち」という意味以上にテンションが高くなる場だったと思います。

所謂「論功行賞」(功を論じ賞を行う)の場でもあるわけですね。

 

その首実検には場所の設営から検分者の装束まで詳らかに決められた所作・作法があります。

茶道などの一連の流れのように、もしかするとそれ以上の厳密な作法が決められていたようですね。

一つ一つの首級(みしるし)に対して、死者への敬意を兼ねつつ自軍の勝利を讃える荘厳な行事だったでしょう。

 

「実検」はその一連の確認作業の総称ですが、大将や御連枝(高貴な人の兄弟姉妹)、物頭(足軽大将)の首に対しての検分を「対面」「検知」と呼んだり白歯者(お歯黒にしていない)雑兵の検分を「見知・配見」と称したそうです。

首実検を前に首は化粧してキレイにするのが常ですので、戦場近くの湖沼、湧水は殺伐とした首洗いの風景が当然の様に出現し、周囲は血に染まったなどという伝承は各地に伝わっています。

 

画像①~④は関ヶ原東軍勝利による最後のイベントの陣、首実検場跡です(場所はここ)。

関ヶ原町役場や歴史民俗資料館の近隣になります。

⑤⑥は陣南側にある首洗いの井戸。⑦⑧は場所は大きく変わりますが長篠合戦場近くの池。

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (金曜日, 02 8月 2013 08:29)

    その後 首はどうするの?

  • #2

    今井一光 (金曜日, 02 8月 2013 22:23)

    ありがとうございます。
    基本的にお役御免の首は捨てられてしまいます。
    どういう捨てられ方をするかはまちまちだと思いますが
    大概はどこかに穴を掘って埋め、時間が経つにしたがって
    後世塚ができ、礼拝の場所となっていくと思います。
    場合によっては寺が建つこともあったと思います。