山内一豊  スタートは400石

幕末の怪物山内容堂はじめとした土佐藩のゴチャゴチャや攘夷討幕の志士の暗躍からして自称佐幕派?の私個人としては当家山内家に好印象はありませんでしたが、こと初代の一豊に関して言えば同じ山内でも少しばかり感覚が違います。

 戦国時代の下級武士で、一族離散、諸国流浪の身ならではのハングリーさと、訪れる幸運を利用しまくって不運や関門岐路を難なくのりきり、とんとん拍子に出世していった

「ずるさ」ともいえる立ち回り方にある意味凄さを感じてしまいます。

一豊には豪快さとか「強い」というイメージがまったく感じてこないというところも人間的であって好感が持てる部分かもしれません。特に天正の地震にて娘を亡くすという悲劇を味わっているところもそうですが掛川に来た山内一豊は同僚だった駿河の中村一氏とともに大井川の治水対策に協力してあたるなど遠州の人たちの力になったという所も静岡人が彼に親近感を寄せる要因となっています。

 

秀吉傘下で赴いた越前朝倉攻め、一乗谷に入る前の刀根坂(場所はここ)の戦いが、出世街道のスタート地点であったのかも知れません。

もっとも世にいう「一乗谷の戦い」は殆どこの刀根坂での戦いが主でありここで勝敗は既に決定づけられていました。

一乗谷はボロボロの負け戦の朝倉家を掃討して完全に葬るための仕上げに過ぎませんでした。

 

刀根坂は一豊の「九死に一生もの」の戦いで、彼にとっては忘れようにも忘れられないほどハッピーで痛すぎる、そして誰から見ても壮絶で「素晴らしい」と褒められるほどの大手柄をたてました。

ここでも強いというイメージより強運さが光ります。

何にも屈しない頑強な闘争心と幸運、何より郎党たちの協力があったが故の手柄だったと思います。

朝倉家流庶子で豪勇の弓の使い手で名を覇した三段崎為之(みたざき ためゆき)を討取った話です。一豊は三段崎の放った矢を顔面を射抜かれて尚、奮戦して槍で相手を倒しました。左目じりから入った矢は右の奥歯まで届いたとのこと。

矢を足で顔を踏みつけて抜いたのは五藤吉兵衛為浄でした。土佐は安芸に渡った当家の子孫の家にその矢が家宝として残っているのでまんざらウソでは無さそうな話です。

大河ドラマ「功名が辻」では武田鉄也が演じていました。

 

この件は信長の耳に入ることになって大いに信長を喜ばせました。

朝倉家に続き浅井家を滅ぼした後、ここで初めて長浜の唐国(場所はここ)に所領400石を許されました。前述の中村一氏が100石の所領でしたので褒美は同僚の4倍。1からのスタートでしたから心もうきうきで顔の痛みは消えたのかどうかはわかりません。尚、当所の地名「唐国」とはなみなみならぬ由緒ありげな場所ですね。

 

碑の近くには当地特有の白系、花崗岩?でしょうか五輪塔の残欠と祠があります。遠州系の黒っぽい五輪塔とは明らかに

違います。五輪塔のバックの丘の向こうは琵琶湖になり、近隣には長浜城、北国街道の走る要衝となります。

画像はお馴染み一乗谷朝倉氏遺跡復元(場所はここ)。左の山が一乗谷城。