押領使 修理職は令外官  受領名 山村修理

主君が戦功やお気に入りの家臣に褒美とともに授けた非公式な官名で特定の官職を私称することを許諾しましたが、その「家」の「官職名」の呼び名でそれを「受領(ずりょう)名」といいます。

ちなみにその許可証の配布を「受領書出」(官途状~かんどじょう)といいました。

現代社会で「受領書」など日常的に出したりもらったりしていますね。

 肩書きの一つの様なものですが「受領名」を与えられた者は自らの名にその官職名を入れたり実際に名のるなど特に栄誉のあることでした。

今も名刺に肩書きを目いっぱい入れている人が居ますが、日本人は肩書きが大好きですね。

 戦国期以前に中央で受領名をお金で買うといった乱れた風潮になってからその乱発は無茶苦茶になって並べて見ると各地、各家に同じ受領名の名のりが見られます。

 

 「修理職」(しゅりしき)昨日ブログ大根に助けられた「押領使」(おうりょうし)と同様、制度規定外の新しい官職である令外官(りょうげのかん)の一種ですが読みと同様、「おさめつくるつかさ」として平安期に創設されました。

かといってその名がお城の修理造営を主体に働くといった名とは限りません。

 

 修理大夫(しゅりだいぶ しゅりのかみ)という修理職トップの肩書きでは九州人吉の相良義陽や薩摩島津系が好んで名のっていますがその次官名「修理亮」(しゅりのすけ)も良く耳にします。「修理」のみの名のりも散見できますね。

 

 武田信玄・勝頼の下、相良から高天神は勿論、駿河・遠州を縦横無尽に駆け回った武田四天王の一人、内藤昌豊(他の3人は・・・馬場信春、山県昌景、高坂昌信)の受領名は「修理亮」(しゅりのすけ)。内藤修理亮昌豊と称しました。

 また織田信長にその受領名を授けられた柴田勝家も「修理亮」。越前朝倉系にもその名乗がありますね。

 

 北ノ庄城落城の際、「修理が腹の切り様見申して後学に仕候へ」と自らその言葉を残して腹を十文字に斬ったといいます。

 最近の大河ドラマでは会津藩の神保修理。

大坂にあった徳川慶喜以下、会津の容保が江戸へ脱出したために幕府軍は雪崩の如く崩壊しますが、身内から総スカンを食い、その責任を負わされて腹を切らされています。

 聞きかじった話ですが、「介錯」無しの正式な切腹(往復して腸を出す)に加えて「十文字の切腹」は頑強な意志が無いと難しいそうですよ。

ちなみに後世(江戸期)の名誉ある責任の取り方である切腹は刃が腹にかかるかかからないかのタイミングで介錯人が首を落としてくれましたので痛みによる悶絶の時間は殆ど無くなりました。

それにしても「腹を切る」ことなど想像するだけで恐怖が襲ってきますが、柴田勝家の「後学 腹の切り方」、今に伝わっていませんね。

勿論一定の責任のあるトップの「責任の取り方」ですが・・・。

 

 さて画像は姫街道二宮神社からさらに西に行った「山村修理」の館跡と墓地です。山村修理は家康の大量虐殺の堀川城の籠城組の守将で地元国人土豪クラスです。

「修理」という、いかにも受領名を名乗っていることから今川系からの受領が匂います。

いずれにせよ以前に記しました通り、堀川城での采配は完全なるミスでしたね。

当地気賀に山村姓が点在していますのでその系統をうかがうことができますが、たまたま出遭った地元「山村」さんはこの墓の場所を知りませんでした。こんなものでしょうね。

 車では行けない左に分岐する「明らかに農道」風の登り道が従来の姫街道。

峠道の始まりです(場所はここ)。山村修理の墓はこの分岐から約100mですから大したことはありませんが、その先に一里塚の碑とさらに先に巨人伝説の池があります。

山村修理は敗戦濃厚の城をちゃっかり抜け出してこの山の中腹の館まで逃げ延び、炎に包まれる堀川城を眼下にし家族に別れを告げて腹を切ったそうです。

 

 ②が館近くから見た堀川城方面、奥の台地が三方原台地。

⑥画像、修理墓碑前には五輪塔の残骸というかパーツが複数、無造作に転がっています。この場で亡くなった人の数を計り知ることは出来ませんがここでも多くの人たちが自害しことが推測できます。