堀川城 やり過ぎ  家康25歳の悔恨

昨日のブログ、刑部城を永禄十一年(1568)末、いとも簡単に落とした家康(松平元康)は一旦三河に戻るものの自らの介入を良しとしないガチ今川配下の小勢がそこここに反旗をなびかせていることに対して年が明けるや再びこの地に兵を進めます。

刑部の城よりも西側、浜名湖に近い場所となります。

 

場所は都田川が浜名湖に注ぎ込むもう一つの川(葭本川)との間の三角州に位置します。細江警察署のある変則交差点を都田川と平行するように南下して約250m、左側の一画に碑が残ります(場所はここ)。

 

城の形態としては何らの起伏も、比高さも無い平城です。

おそらく防御の要となったのは低湿地帯の足場の悪さと天然の水源を利した、その名の如く「堀」のみの素人風俄か作りの城だったのでしょう。

 

私の知る限り決戦状態になった城の中でこれほど無防備な城は無かったかと思います。

当時の姿は想像のみですが、現地の雰囲気はこれ以上の「要害」を思案できないくらいです。

 

この城への籠城は適切では無いでしょぅね。

包囲される寸前に北方の山中に逃れてゲリラ戦に持ち込んだ方がはるかに上策だったでしょう。

 

しかしこの城に逃げ込んだ者たちの大半は老若男女併せた農民たちでした。

どういう状況下でその者達が武装し籠城し時に攻撃までするという姿勢を見せたのかまったく判りませんが松平元康のムシの居所が悪かったのか、若気の至りか(しかし戦国時代の25才は若くない!!)、籠城側指導者の判断の誤りか、その欠如か、成り行きでそうなったのかまったく理解に苦しむところです。

 

後の色々な場面での家康の采配や性格からしてもそうですね。

そうです、ここで元康は信長がまたよく差配した「なで斬り」を此の地でやらかしたのでした。

 

「男女ともになで斬りにしたりける」(三河物語)

 

たった1日の戦闘で約1000人を殺し、後日籠城徹底抗戦を主導したり関わった者たち700人を斬首し、都田川の堤上に並べるという悪辣な趣向を披露しました。

今では家康憎しという感情は耳にすることはあり得ませんがその事件からは数代に渡って此の地に遺恨を残したことでしょう。

 

画像は城址石柱と塚。

③の画像は南側の田の畔からの図。

④驚愕の数値、標高1.3m。地図を見ていただいてもお判りと思いますが浜名湖の一番奥にも関わらずこの程度。

戦闘時の城塞の比高もそうですが、現代の津波の脅威からしてこの街も相当不安でしょう。 

 

 

 

 

 

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コメント: 8
  • #1

    小山昭治 (火曜日, 04 6月 2013 08:46)

    ゲリラ戦ってあったのでしょうか。
    1対1「やーやー 遠からんものは・・・」と
    お互いに名乗り戦うのが正義であって
    ゲリラ戦をしたのはいつからでしょうか。
    首を並べるなどと言う騎馬民族のようなことは
    いつころから行ったのでしょうか。
    どうでもいいことですがね。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 04 6月 2013 21:52)

    ありがとうございます。
    ちょこっと記そうと思いましたがその辺のところ、ブログにて触れさせていただきます。

  • #3

    アイビーム (日曜日, 21 9月 2014 18:33)

    この堀川城の記録は、今は城跡近く細江図書館にも開示されてません。
    当時の細江気賀地区の暗い暗黒事件は、晩年徳川幕府250年
    の光と影の部分です。
    なぜ?細江公民館に開示されないのか歴史のうわべだけの
    知識は地元のご先祖に申し訳ないと思われます。
    若き頃の家康は掛川方面から軍を率いて当時岡崎に帰る
    途中に、姫様街道を通過、その光景を地元気賀村の住民は
    道近くの手作りのお城に集まり歩く軍隊を見ていたようである。
    しかし家康は遠州を手にいれようと大久保彦左衛門と画作を
    していた。
    この城は地元の気賀村で勉強を教えていた者や、槍を教えていた山村性名乗る名士が、村人の推薦で城の番人となっていた、当時の女や子供、年寄りも多くの寄合所になっており
    軍隊を備えた一般の形とは随分違っていた。
    家康はその時に、気賀村を手に入れなければ遠州征服
    は遅くなると考えたと思われる。当時の城は都田川と浜名湖
    間にあったが、引き潮であっさり道が出来て落とされる場所である。最初から考えて作ってないというより
    城ではないからである。
    しかし、大久保彦左衛門も後年に本に記してあるようで
    老男若い娘も子供も、ぶった切ったと当時の残虐を漏らしている。平和な村を罪無き者をいきなり襲ったのである。
    いわば、若き頃の家康の大きな暗い影の部分である。
    この堀川城の門構えが後年、気賀のお寺に移設された。
    しかし、やはり祟りか?そのお寺の坊さんが夜中に
    入った泥棒に刺されて亡くなってしまった。
    数年前の事件である。
    家康は大阪城を落として幕府を開くときに戦争のない
    平和な世を作ろうと治安を心に強く思った。
    これは、この時の残虐な思いが平和な世を作ろうと江戸幕府を作らせた。
    だから、気賀村の歴史を隠さずに正直に
    地元住民は後世に伝えなければ、本当の平和は分からず
    終わりますね。



  • #4

    今井一光 (月曜日, 22 9月 2014 00:49)

    ありがとうございます。
    仰る通りですね。堀川城の記録は家康はどうしても葬り去りたい汚点と自分でも理解していたかも知れませんね。
    それにしても家康の後世の的確な差配からするとあまりにも無残な史実でした。浜松も家康で観光を盛り上げるという意図を感じますがこのような耳の痛い話も伝えていくことも必要なことだと思います。
    また、あの未解決殺人事件のお寺さんにそのような遺構が移されているとは知りませんでした。情報をありがとうございます。また、よろしくお願いいたします。

  • #5

    ビスケット (火曜日, 04 7月 2017 21:02)

    今年の大河ドラマ、おんな城主では、堀川城攻めを取り上げる気マンマンな気配をひしひしと感じます。(丁寧な気賀の街の描写。小心で繊細、であるが故に自棄になったら何をやからすかわからない家性格という家康のキャラクター。)
    ただ家康に直政仕えてメデタシメデタシ…ではつまらない。それよりも家康と井伊一族とは愛憎入り混じる関係とした方が、断然面白いですし。

  • #6

    今井 一光 (火曜日, 04 7月 2017 21:21)

    ありがとうございます。
    そうですね、気賀には相当入れ込んでいるようですし2週にわたって
    「城づくりの件」でスポットをあてています。
    ただし堀川城の大量殺戮に関して後世の施策に於いて大きな誤りの見当たらない
    (奥さんと子殺しはさておいて・・・)家康に私たちは「理解不能」としかいいようのないところです。
    井伊にとっては家康は出世の道を開いてくれた崇敬すべき人物となるわけで、この家康の常軌を逸した行為はドラマではサラッと流すかやはり触れないのかも知れません。
    ちょっとした時間では描き切れない複雑怪奇な事件のような・・・気持ちとしてはどう描くかも見てみたいところです。

  • #7

    ビスケット (金曜日, 08 9月 2017 18:50)

    堀川城攻め、直虎でも取り上げられましたね。
    こちらのブログで紹介されていたものとは形が違いましたが、スポットが当たっただけでも大きいと思います。
    徳川家康「ぐずぐずしていたら、武田信玄という名の天災に遠江を切り取られてしまう。どうしよう!?」
    酒井忠次「見せしめに根切りをすれば、まだまだ戦う気満々の連中もビビって降伏いたしますぞ!農民達も恐怖心から徳川に服従するでしょうし、その後の統治も楽で、一石二鳥でございます!」→勝手に実行
    の、流れも戦国の残酷な空気や、江戸期と違って忠義に厚くない上、主君にずけずけものを言う戦国武士の気質を表していて、これはこれで良かったと思いました。

  • #8

    今井 一光 (金曜日, 08 9月 2017 19:50)

    ありがとうございます。
    家康に時間が無かった事は確かで焦りがあったことも確かでしょう。
    しかし私のこれまでの勝手なイメージでは今川(大澤)になびいた地侍が
    地元の農民たち(今でいう民兵+婦女)を城内に避難させていたところへの
    徳川軍城攻めであり、これは不幸なことだとは思いますが、戦後スグ
    捕らえた「民兵」を斬首し、都田川の堤上(獄門畷)に並べるという悪趣味は
    いただけませんね。
    井伊との直接的関係についてはわかりませんが
    番組で描けたことは歴史を掘り起こす意味で一石を投じたと思います。