「末の松山」に「運天」と「歌島(かじま)」

「神島」沖を通過して・・・・。

 

末の松山」は男女の契りの歌枕。「運天」は鎮西八郎の「運を天にまかせて」の沖縄の運天港。「歌島」は伊勢の漁師の島「神島」の旧名です(場所はここ)。

〇に八、㊇の答志島と同様、鳥羽からの船便があります。

 

 さて小島蕉園は文政六年(1823)に遠州相良に代官として赴任して良政を布し民衆に慕われましたが元々彼は「徳本流」の医者でした。

「徳本」とは後世「トクホン」という湿布の貼り薬として僅かながらその名は耳にしていましたが銘々したのみでその会社との関係は無いとのこと。

 

 その「徳本」が日本史上、「これほどの医者はいない」と尊ばれた永田徳本です。

1513年三河生まれ、118歳まで生きたと伝わります。

二代交錯しているかも知れませんが、仁術の施者として自ら驚異的長寿を実践したとも考えられます。

医術を学んだ後、甲州に赴いて武田信虎・信玄の侍医となりますが信虎の駿州追放から武田家と距離を置き、武田家滅亡以降は地方を渡り歩き「民」の中で施しました。

治療にいくら手が掛かったとしても報酬は決して十六文以上の金額を受け取ることが無かったといい、通称が「十六文先生」。

その医術と仁徳による名声から二代将軍秀忠の病の治癒の為に呼び寄せられて秀忠全快後、無報酬で立ち去ったといいます。

これは秀忠の側近だった永井直勝が「十六文先生」の徳本を呼んだのですが徳本は永井直勝から見て叔父にあたる人でした。

永井直勝は小牧・長久手で池田恒興を討ち取った武勇で名を馳せた人です。

二人の関係は桶狭間以前の三河大浜(愛知県碧南市)を治めた長田重元の弟(徳本)と重元の子(直勝)というところです。

直勝は次男の為、永井家に養子となり、永田徳本は兄に憚って長田→永田を名のったことなのかと。

 

三河の長田といえば頼朝の父親、源義朝を風呂場で討ちとった「長田」親子を思い出します。その系統の子孫が長田重元でありその弟(徳本)と重元の子(直勝)です。

 

丁度、大河ドラマでは会津の松平容保が京都守護職をいやいやながら受けて動乱の京都に向かいますが、その京都では慶喜派のキレ者、永井玄蕃頭尚志(なおむね)が京都東町奉行・大目付がいますね。

京都市中で不穏浪士を取り締まり新選組や京都見廻組とも近い関係にあった人です。永井玄蕃は徳川家茂(いえしげ・・と吉本の「茂三しげぞう」ばかり頭にあって、つい「シゲ」と読んでしまいますが「いえもち」ですね。「いえしげ」は田沼意次が大名として取り立てられた時の紀州出の九代「家重」がいます・・・)と徳川慶喜との後継争いで14代将軍が家茂と決定されてから冷や水を飲まされます。

桜田門外で井伊暗殺、家茂病死によって慶喜とともに大局に台頭していきました。

近江屋の坂本竜馬の件、背後で糸を引いていたのはこの人という説もありますね。

 

 その永井玄蕃の玄孫(やしゃご)に三島由紀夫がいて彼の例の事件は玄蕃の気概がそうさせたという説もあります。

 

 横浜の友人「奥の墓道」との伊勢行脚の船便の発着地、渥美の伊良湖は明治31年(1898)の柳田國男の紀行、「遊海島記」に詳しく語られているそうですが柳田國男がそこから船で渡ったのが「神島」です。

その半世紀以上経って神島(歌島)は三島由紀夫の大ヒット純愛小説で幾度も映画化された「潮騒」の舞台となった島としてクローズアップされました。実際に各ロケはこちらで撮られたそうです。

最近はそれを縁として男女の「契りを誓う場所」として観光客を集めています。

 

話中、成就できない二人の仲をハッピーエンドに結びつけたのは沖縄運天港でのエピソード。

主人公の若者が台風で流された自船(一乗組員ですが)をまさに「運を天に任せる」如く荒海に飛び込んでロープを結ぶことに成功し船を助けるというシーンがありました。

鎮西八郎の伝承(椿説弓張月)を彷彿とさせるストーリーをラブストーリーの中に織り交ぜるところは三島らしさなのでしょうか。

再リメークの噂もちらほら。

三島自身、あの腹切り事件の直前に映画出演していましたが薩摩の人斬り、田中新兵衛役でした。役で獄中で腹を切っています。映画の名も「人斬り」。 

 

画像は伊良湖岬から見た神島、海路荒れた海に浮かぶ神島の図。