汝なんぞ 指をみて しかも 月をみざると

「天声人語」について「入試に出るから読めっ!!」と昔から先生に言われ続けていましたが、最近はそれと同じことを次男に言いきかせている私があります。

数学に赤点をとっても「清涼」な顔をしていられるのは私もそれについては同様であったことと、まして人様にそれについて指図や非難ができる筋合いがまったくもって無いからです。

しかし私の場合その効果が果たしてあったのかというと何とも言い難いところではありますが、次男には朝日新聞の其の欄を、「読んでから登校すること」は、いつからか毎朝の日課になっています。

読みの難解な漢字に最初はモタモタしていましたが最近は少しばかりは上達しているように思えます。

多少字が読めなくても文章を読むことと時流がわかること、大きい声を出すことのトレーニングになってくれればと思っています。拙僧もこの期に及んで紙面にて「目から鱗」な体験をしていますので。

尚、彼がその「発声」をしている時は毎朝更新されている「天声人語」にアクセスして私の方でも同時に目で追いかけています。

 

 しかしその欄を読んでもらうということはある程度の「問題提起への理解力と文章構成について上達して欲しい」などという期待が親としてあるものなのですが、御当人はただ読んでさっさと終わらせるといった感じになっていることは否めませんね。

 

 そのことが11月9日、「天声人語」欄にあった標記内容ですね。

「目先のものに気を取られて物事の本質に目が向かない」ことを言っています。まぁ往々にして人間はその傾向にあるものなのですが。

本文では真紀子文科相の「暴走」にばかり目が奪われがちになって真紀子バッシングに走る世論に対してその本質を探ることを忘れてはならないという内容です。

「新規参入のハードルは格段に低くなっている」「不認可とされる事例は極めてまれ」と豪語しているのか文科相の「大学設置認可制度の手引」ですね。「大学作って一儲けもOK」という内容にも取れますが当然に迷惑を被る人々はかつてから多く生んでいますよ。大学開設=みんなが薔薇色では無いということです。

 

 静岡県でいえば御殿場の「富士フェニックス短期大学」。

1992年に開校したかと思ったら2007年には早々に廃校になっています。

要は学生が集まらなかったからです。女子校を共学に変更したりしましたがダメ。この顛末で約10億円の税金が使われたとのこと。周辺自治体もそれぞれ相当額を負担しています。

みんなその「祭り」にのっちゃったので文句は出なかったのでしょうか。

 

 日本全国学生の数が右肩下がりなのに大学の開校が右肩上がりという不可解な現象が起こって、当然の如くに、またぞろ経営困難に陥って廃校になった大学が出てきています。

バカバカしいというか勿体無いですよ。おカネが。

 

 当流にもありますね。愛知新城大谷大学。

2004年に設置されて2010年より募集停止。

相良から近いので次男の進学先の選択肢に入れていたのですが・・・。

 

そういう意味でいうと今回「訴訟に」とまで息巻いていたあの3つの大学を擁する自治体の首長さん方、注目度がアップした今、数年後「やっぱダメでした」と自ら撤退の声を発することが無いことを切に願うまでですね。

結論が出るのにまずは10年もかかりませんのでそんな時は笑いのネタになることもお忘れなく。

学校経営は「バクチ」とも聞きますよ。

 

しかし「月が!」と言って指を指す人のその指を見るなんてことは少し「譬えがオーバー」な気がします。

画像は本堂の南の空に浮かぶ月。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (土曜日, 10 11月 2012 08:57)

    何をするために大学へ行くのか。
    何をするかを捜すために行くのか。
    行こうとする以上は努力が必要です。
    ハードルがあるのです。
    何も努力をしないで、あるいは 少しの努力で
    行ってもその先はどうするのですか。
    遊ばせるために行かせるのですか。
    周りが行くから行かせるのですか。
    子供が勉強をするとき、
    親は好きなことをしていませんか。

    目標を持って大学へ行きたいのなら
    国立は当たり前でしょう。
    そのぐらいの努力は必要でしょう。
    皆さん お金があるのですね。
    日本は裕福です。

    と 思っても
    大学へ行っても行かなくても
    生きていけないわけではない。
    騒ぐほどでもないか。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 10 11月 2012 18:26)

    ありがとうございます。
    そうですね。今の大学制度は高校3年のあと、
    「さぁ、どうしようか」「どっちにする?」の曖昧な
    選択肢としての存在として成り下がり、随分とかつての
    その意義とは違ってきましたね。

    しかしとやかく言っても私如きの不勉強が語ることのできる
    領域でないことは確かです。何よりそれを批する資格がありませんね。
    また全国民中流以上の意識にのっとりみんな「進学」
    という言ってみれば「本社会人へのインターバル」を享受できるようになったということは「いい時代」の象徴でもあるかも知れません。