高天神関係武将について
増田実氏 資料 原文のまま
●本間八郎三郎氏清
元、久野家の家臣で山名郡高部村(磐田郡袋井市笠西の内)にいて
付近数ケ村を知行した。天正二年六月二十八日討死した。
子孫小笠郡浜岡町池新田の地を拓き、現在子孫同地に居住(軍記)
●丸尾修理亮義清
本間の弟で山名郡赤尾村(高部村と同所)に住して赤尾長者と云った。
天正二年六月二十八日討死。子孫浜岡町池新田にある。(軍記)
●斉藤宗林
下方(小笠郡城東村の字 下土方)を知行す。天正二年落城後甲州に
降り、のち浪人して駿河国宇津谷で討たれた。
その墓は静岡市寺町宗林寺にある。また嫁の墓と称するもの、中村の
屋敷址にある。
●中山是非助 姉川七本槍
榛原郡湯日村(島田市初倉の内)を知行した。天正二年落城後、甲州に
行き、さらに奔って浪人し、のち三州岡崎に老衰した。(甲斐国誌)
●渡辺金太夫信重 姉川七本槍 (武徳編成集成には「照」てらす)
下土方村(城東郡の大字)を領した。屋敷址は今に渡辺池と称して
その遺跡を伝える。現在の面積は一町六反五畝歩ある。
のち甲州に降り、天正十壬午年三月五日信州高遠城に奮戦討死した。
(甲斐国誌及集成二十巻後世その子孫細川侯に仕えて現存する)
●伊達与兵衛宗春 姉川七本槍
房州鶴ケ谷の人。はじめ小田原に仕え、武者修行してのち高天神に
入り、天正二年甲州に降り、また小田原に奔り、天正十八年徳川氏に
降った。大坂の役で真田の出丸を攻めて討死した。(寛政譜)
● 横田甚五郎尹松
十郎兵衛の男 初名は甚五郎、のち甚右衛門、勇謀父祖に継ぐ。
天正壬午徳川にて御使番軍監を勤め寛永十二年七月五日卒。歳八十。
(寛政譜)子孫幕府に仕えた。(甲斐国誌)
●江馬右馬允
甲陽軍鑑に足軽隊将騎卒十人、飛騨国江馬常陸介の弟であると。
天正九年高天神落城の時、軍監として在城戦死した。甲府の
緑町内成寺に看経仏並びに墓所がある。(甲斐国誌)
●吉原又兵衛 姉川七本槍
天正二年甲州に降り、足軽隊将五人の内である。 兵家茶話に、
今川家の吉原又兵衛、織田家の中野又兵衛、武田家の小幡又兵衛
という。大石和筋能呂に墓所がある。(甲斐国誌)
●林平六 姉川七本槍
天正二年甲州に降り、同六年上州膳所の城に討死した。太平夜話に
高天神衆林平六は、遠州頭陀寺で、一日に六度槍を合わすと。
(甲斐国誌)
●門奈左近右衛門俊武 姉川七本槍
武隠草話に、姉川の役の時、門奈は最先なれど、猿の皮の投頭巾にて
指物なき故、河向より見え兼ねた由を記した。(目立ちまくった渡辺
金太夫に対して) 兵家茶話に名、俊政に作る。のちに越前に仕えた
という。また子孫紀州にあると。
●伏木久内 姉川七本槍
信長から感状を賜ったうちの一人
●松下助左衛門範久入道如伯
馬伏塚城門の側に住して、この地を松下村という。高天神落城後
横須賀組下となり、七人衆の一人である。のち紀州に行く。
●渥美源五郎勝吉
首取り源五といわれた。天正二年落城後、横須賀組下となり、七人衆
の一人である。大須賀五郎兵衛(康高の弟)の下知を潔しとせず、上土
方の領地に引込み病死した。墓所は上土方御前山にある。
その子源五郎は紀州に仕えた。(軍記 華厳院文書)
●曽根孫太夫長一
小笠郡朝比奈村を知行した。天正二年落城後、横須賀組下となって
紀州に行く。朝比奈村に屋敷址を伝える。(寛政譜 集成)
●小笠原与佐衛門清有
天正二年落城後、横須賀に復して、のち紀州に仕えた。慶長十七年
七月卒し、墓は横須賀撰要寺にある。
●黒田九郎太夫義則
平川村を知行した。はじめ今川氏に属し、のち徳川氏に仕え、高天神
小笠原に属して籠城した。子孫同所に在る。(小笠町下平川)
●松下平八
天正二年落城後、致仕(隠居)して新野村に住した。その末裔同村に
在るというが、子孫不明。鷲山伝八郎。平田村某寺に墓所がある。
平田村の子孫 県、鷲山一代替りに名乗り、今同村に県、鷲山とが
存する。
●大石外記氏久
富士郡善徳寺の人、天正二年六月大手池の段の戦に戦死した。
歳五十五、子新次郎久末横須賀組下となり、子孫大浜町報地に居住
する。
●川田平兵衛真皆
榛原郡菅ケ谷村を知行した。高天神籠城の時榛原諸郷の組頭であっ
た。子の平太郎真勝は六月大手の尾崎で戦死した。子孫榛原郡菅ケ谷
村に居住する。
●坂部三十郎広勝
天正二年落城後、横須賀組下となり、のち幕府の旗本となった。
元和八年十一月二十日卒、六十二歳。(寛政譜 集成)
●久世三四郎広宣
坂部広勝と相並び戦功があった。天正二年落城後、横須賀組下となり
のち幕府の旗下となった。寛永三年三月卒、六十歳。大須賀町浄泉寺
に葬る。三男広之諸侯に列した。
●竹田右衛門のち十左衛門と改
天正二年落城後、横須賀組下となり七人衆に列した。
のち大須賀忠政に従い、千三百石を受けて上州館林に移った。
(軍記 了教院記)
●栗田刑部
一本栗原刑部とある。軍監に栗田刑部とある。東鑑に栗田寺別当
大法師範覚と見えた。兵家茶話に栗田鶴寿、武田氏に属して天正八年
高天神にあり後永寿男源左衛門は庄内藩に仕えた。小笠郡菊川町
中内田、平尾八幡宮神主、栗田家系図には栗田刑部少輔吉信とある。
同人か別人か不詳。
●粕谷善左衛門則高
掛川在西郷村を領した。
●池田縫平
一本抜平毛森村を領し、縫平屋敷跡、享保末年迄は土居囲いそのまま
あったという。
●木村長兵衛
天正二年落城後、横須賀組下となり、三俣村を領し屋敷跡を殿屋敷
また殿海戸という。岩滑村にも領地有り。
「門先の松」というものがある。
●大須賀五郎左衛門康高
横須賀城主となり天正十六年六月二十三日六十二歳で卒去。
大須賀撰要寺に墓がある。榊原国千代を養って子となし家を継ぎ
松平忠政治という。その子忠次に至り、榊原氏継無く、大須賀
榊原、両家を合わせて忠次これを継いで榊原氏を称し、上州館林に
移された。
●孕石主水元㤗
今川家臣でのち武田氏に仕え天正七年高天神に入って武者奉行となっ
た。同九年三月二十二日の夜切って出て生捕されて切腹を命ぜられ
る。徳川家康の幼き時、駿府の少将の宮の町に居住した時、孕石も
隣屋敷にあった。当時家康の狩猟の鷹が折々孕石の屋敷に入ると
「三州の倅には飽きれ果てたと」たびたび放言したという。
家康これを記憶して「吾に飽いた孕石なればはやく切腹せしめよ」
と申し渡した。孕石これを聞いて「さらに後悔なし」とて潔く南を
向いて腹を切った。
傍らにある者これを見て「流石の孕石ほどの者が最期を知らぬか、
西へ向かいて腹を切れ」と云えば主水いわく「汝はものを知らずや
仏は『十方仏土中無二亦無三除仏方便説』」と説き給う。
「西方許に極楽は有りと思うか。あら胸狭きことや。何の極楽を
嫌わんや」と。南を向いて腹を切ったという。子孫土佐山内氏に仕え
たという。掛川市原泉字孕石は旧領地である。
増田実編 郷土教育資料(第六輯) 高天神城址案内より
※増田実氏 明治三十九年小笠郡城東村生 文化財専門委員