一城別郭の構造 高天神城の修理亮

「一城別郭」とは1つの城でありながら主郭級の規模の郭が複数ある連結型の形態の城を言います。

簡単にイメージしていただけば尾根で繋がった「双子山」の一方の山が主郭(本丸・本曲輪)、もう一方の山が別郭という感じでしょうか。

高天神城はその「一城別郭」の形となりますが「双子山」の主郭、東峰の方に三の丸、第二の郭である西峰(西の丸、二の丸)の南側に馬場平とそれぞれ補助曲輪を持ちました。

そのNO.1の主郭とNO.2の砦を結ぶ尾根(ブリッジ)に井戸曲輪を設けていたのが高天神城です。

画像は現場掲示のイメージ図で戦国の禿山城塞を描写しています。南側、追手門側からの図で、西には山間地、東側が街道と平地で相良から富士山の方向になります。

攻め手は①追手門②北側の搦手門がオーソドックスな方法ですが、どたらも「双子山」の連結部に向かっての登攀路で横矢がかかり難攻振りがよく判ります。

武田方、徳川方による2度の高天神攻めがありましたが実際の攻城戦では2度とも③西(二)の丸を西側から落とす方法がとられ実際にそちらからの攻め手に押し切られています(場所はここ)。

 

二の郭、曲輪(二の丸・西の丸)はまたの名を「堂の尾曲輪」と呼びましたがここが弱点であることは城側としても理解していたはずで、郭の先端である北側に向かって土塁を伸ばし空堀を設けて防御力向上に力を入れていたあとを感じます。

修理」について先日記しましたがこの郭の櫓で戦死した人にも修理亮がいました。

 

天正二年(第一次高天神城)の武田勝頼の襲来による攻城戦で守将として300騎で指揮をとっていたのが本間八郎三郎氏清でした。櫓、物見に上っての指揮官、本間の具足が朝日に反射して輝いたところを穴山梅雪指揮下の西島七郎右衛門の鉄砲が狙い、弾丸は首の近くに命中、本間は本曲輪に運ばれて介抱されましたが絶命したそうです。

28歳の戦死でした。指揮官が倒された櫓に上ったのは本間の弟、丸尾修理亮義清でしたが、やはり胸部へ被弾して26歳で亡くなっています。

 

この曲輪にはこの場所で亡くなった二人の名が記された墓碑が立ちます。後世1737年に末裔の本間惣兵衛が建立したそうです。高天神に訪れる人はそうは多くありませんがいらしても本曲輪と馬場平止まりの方々が多いようです。

案内板もありますのでこちらのひっそりと森の中に建つ墓碑にもお参りください。井戸曲輪の井戸を右に行けばスグですよ。





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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (水曜日, 03 7月 2013 08:38)

    へ~武田軍も鉄砲をうまく使っていたんだね。
    しかし射程はそんなに長くないと思っていたのかな。
    狙撃で死んだのか、たまたまなのか。
    狙撃ならばなかなかの腕前だから
    名前は残るのでは。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 03 7月 2013 21:57)

    ありがとうございます。
    高天神攻めの頃といえば鉄砲が伝来して30年。
    鉄砲を導入しないということは「淘汰されること」を意味しそれは即滅亡に繋がるということを天下に知らしめるのはやはり「長篠」を待たねばなりませんが、当時の資金力ある大名クラスで鉄砲に興味を示さない人は居なかったでしょう。
    特に武田家は資金力も屈指で鉄砲を使用した事に違和感はありません。
     その重宝な飛び道具はまだ単発的な武器として、あるいは精々「槍隊」の前列かその間に配置する程度で組織化されていない頃で、もしかすると鉄砲の殺傷能力についてはすべての武将がまだ完全に理解していない頃でもあったと思います。鳥打銃とも呼ばれた飛び道具は堺の商人が飛びついて大量生産して戦争の道具として全国に普及していきました。

    私も当時の狙撃手がそんなにうまく撃てるとは思えません。
    きっと五人程度の「鉄砲組」が敵の大将をと一斉射撃した結果だと思います。
    鉄砲が普及する頃は「目立てば的になる」だったでしょう。
    本日NHK「歴史秘話・・」は「鉄砲ネタ」ですね。