2 川田砦

「高天神の跡を尋ねて」(藤田清五郎氏)より      

「元亀二年辛未の二月十六日、武田信玄は二万五千余の軍勢を率いて甲府を発して駿河に進み、同二十三日志太の田中城に着した。

 

二十四日遠州に入り、能満時山に築城して小山城と称え、

続いて地の利を考えて相良城を築いた。

当時四方風を望んで武田氏に従ったが、菅ケ谷村の川田平兵衛、湯日村の中山是非之助は城主小笠原長忠の招きに応じて徳川氏に帰従した。」

 

とある菅ケ谷村の川田平兵衛の川田砦跡です。

この砦は推測地でハッキリとした確証はありませんので今後の検証待ちでもあります。

 

 

菅ケ谷は相良―金谷線から朝比奈原丸尾原の台地を越して塩買坂、菊川方面に抜ける谷あいの道と菅ケ谷川に沿って、台地より東に延びる延伸台地の谷間になります。

 

その谷間の北側に菅山小学校、その学校の裏に「八面(やおもて)神社」があります。その小さな社の銘板の記述は・・・。

「棟札によれば 今川家の家臣 川田平兵衛 菅ケ谷村を知行し 天正三年1575年菅ケ谷村大通に当社を勧請(分霊) 爾来数回改築す

この祠は後代の川田傳蔵 享保三年1718年造営せしものなり 明治七年この地に移し境内社として祀る 昔は秋の例祭に於ける神輿の渡御は大通八面社に往復せりと伝う・・・・」

 

「往復」という言葉にあるようにかつては元の社があってこちらに移転した新しい社と行き来したものと思います。その元の社があった場所が「川田砦」と推測される山の頂になると思います。

 

2番目の画像が八面社から見た南岸の「川田砦」跡と推測される山です。

北側から上がる道は新しく作られた台地に上がる車道で分断されていますが、主郭に繋がるであろう大手道らしき道には土塁や堀切を類推できる場所もあります。定かではありませんが・・・。(3枚目)

 

4枚目は砦のある南岸中腹より見た菅ケ谷と北岸、その向こうに女神山(石灰山~いしばいやま)が見えます。

台地上に登りきれば今は茶畑になっている場所にかつての主郭へ繋がろうとする道の両脇に二の丸と馬だし(三の丸)、屋敷跡風の敷地が広がります。

 

この場所も周囲の木々を切れば相当の眺望です。特に画像でも判りますが南側には海まで見えます。(5枚目)

最後の画像が主郭や館跡、あるいは烽火台のような施設があった平坦な場所となります。

 

この地は「菅ケ谷」から望む山頂というイメージで考えるとピンときませんが相良から延びる武田勢が高天神に向かって通過する台地上の「塩の道」の街道筋(台地先端部)にあって、いわゆる塩買坂の数キロ手前という位置になります。

よって台地からの攻撃には高低差さが無く、平城と同様です。

 

左右急斜面で尾根風の狭窄な部分もありますが一本道で攻めやすく守りにくい砦です。川田一統は武田軍通過の際、相良方面に武田の旗印が確認されたら適宜この砦を捨てて高天神城に籠城したものと思います。

やはりこの地での大軍の迎撃は無謀です。

 

高天神記によれば川田平兵衛真皆とその子、平太郎直勝は高天神城主小笠原長忠の招きによって高天神に籠城して徳川方となり、「大手池の段」を榛原諸郷の組頭として守りました。天正二年(1574)6月18日、大手門にて平兵衛は腕に疵を二ケ所を負い、平太郎は討死したといいます。

 

この砦の烽火台からは滝境城、相良城と見渡せるため、塩買坂―高天神城の烽火台へ向けての狼煙は効果的だったと思います。

 

川田家の後裔として相良では本通りの川田歯科さんがありますね。