車で「奥の墓道」氏とあちこち走っている間はポカポカで車中「暑い!」の語が。
息子は静岡の法縁に向かっていましたが、帰宅してからやはり「エアコンをcoolにした」とか。
馬鹿小僧はスグに機械の操作をしたがりますが、私どもは適宜窓の開け閉めで対応。
それでも外は風強めで、外歩きは上に一つ着ていなくてはダメのレベル。ポカポカは室内、車内の限定のことでした。
土日の天気予報は「静岡でも雪か」のことを言っていましたが相良に関してはその変化はまずないでしょうね。
扨、「奥の墓道」氏との墓場歩きの中、前代未聞の仰天摩訶不思議の件を記します。
私は小田原生まれで此処相良と同じくらい(今のところ)小田原での活動時間が長く、当然ながら「奥の墓道」氏と長きに渡って小田原周辺をブラついています。
よって先日は高天神城案内の件を記しましたが、小田原城の方も自信をもって人様の趣向を満足させる自信があったものです。
もっとも小田原城は「惣構え」というくらいに広大で焦点がボケがちになりますが、「戦国の城」という観点から、ほかしておけない遺構といえば相洋高校グラウンドの上の南北の遺構です。特にあの大堀切は見もの。
アレを見ずにして小田原城を語ることなどできないと思うのですがね。
以前から当相良史跡調査会の面々をご案内するつもりでいましたがなかなか実現に至っていません。
拙ブログでも各小田原の遺構について記していますが、その中で過去ブログ訂正絶対必至の前代未聞の誤りについてこの機会に改めることにします。
しかし、この「誤り」は私の錯誤ではなく、そのお寺さんに何らかの問題があったことが推測できますがまあ、そのことについて論うことはいたしません。
とはいえそのことが拙ブログにてかつて記した記述と画像がまったく誤りとなってしまいますのでそのタイミングが到来したということで、訂正を兼ねて記すことにします。
それが2017年12月に記した(実際にそちらに行ったのはそれより以前のこと)「信康への悔恨の痕跡はこちらでも 萬松院五輪塔」でした。
小田原に信康の供養塔たる五輪塔が存在する理由はそちらに記されていますが私どもがそちらに参った際は確かにその「信康の五輪塔」の紹介があり脇に立つ石標にもそう記されていました。
また墓標前の家紋が葵の御紋だったのも印象的でした。
これだけの五輪塔が遺されていることに建碑者の気持ちが伝わってくるものだとあの時は感心していましたが。
久しぶりにそちらにお邪魔させていただいて・・・
まさに唖然呆然、天地がひっくり返るような気持ちになりました。「奥の墓道」氏も同様「不思議だ~」を連発。
驚愕のそれ、その五輪塔が信康のものではなかったこと。
信康の五輪塔(供養塔)がその背後に新しく建っているという状況でした。令和三年に建碑されたことがわかります。
ではその五輪塔の主とは・・・
こちらの五輪塔は供養塔ではなく将に墓だったのでした。
大澤次郎左衛門正秀と正重と変更されていました。
家紋の部分が葵紋から沢瀉紋に変わっているのも確認。
標柱も移動されていましたし・・・、まぁ色々ある。
こういうことがありますから、後からのフォローと変更点の有無の確認と言う意味で時折、顔を出さなくてはならないことがわかります。










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