一橋様一位様文書 再掲再検討

晴れ予想も曇が多く時々小雨降る時間もあり。

午前中にやるべきことは済ませました。

午後からは、相変わらず収まらない物置の雨漏り対策用に部材を求めに走りました。

それを屋根に設置したわけですが以前の物を捲って見れば木部に相当なる腐食を発見。

取り敢えず「見なかったこと」にして脚立を下りました。

どこかでのんびりと考える事にしましょう。

 

24日はドカ雨が降るといいますね。

何度か記していますがこの乾期の雨は恩恵を思います。

この湿潤環境の提供がなかったとしたら・・・火災で命を失っていた方がいたかも・・・それはもしかして私だったのかも・・・などとその雨を歓んでいます。

物置の雨漏りにはクサクサしますがね。

あと天候不順の中、息子は高速道路使用の法縁会場への移動を控えていますので、「上々の上」にてうまいことやり切ってもらいたい。

昨晩は神奈川の横須賀にて法務があり、そちらから帰って来たばかりでした。

 

私の方はこの時節となるともはやいつもの「勝手にしやがれ」で、ただ日々を送るのみまた齢を一つ喰うというのも恨めしい。願わくばこの暖かい師走が続いて御門徒様みなさんがやはり健勝「上々の上」ですごされることを・・・。

 

大河ドラマ「べらぼう」は奇想天外のストーリー(一橋治済に関するいろいろ)に印象が行き過ぎてただただ唖然の「終わっちゃった」感。

 

田沼意次失脚、相良破城ほかいろいろ治済暗躍説については当初からその気配がありましたのでそのスジは予想していましたがラスト2回の治済演出は少々ヤリすぎでしょうね。

相良には治済の性質として「良き」を連想する書面が遺っていますので、尚更です。

品誕に大公は

坂井の山崩れ

 

老齢年金-への御礼  について記してきました

 

その中で私がその文書にどうしてもその説明に歯切れ悪さを思うところがありました。

それが上記③の文書です。

今の如く一橋治済の名がそう出回っていない時のブログでした。

 

私が勝手に老齢年金の御礼などと記していましたが、その書面の冒頭の「一橋様」に関して・・・

文化二年(1805)の文書になります。

治済(宝暦元年1751~文政十年1827)は明和元年(1764)には一橋家を継承してますが隠居したのが寛政十一年(1799 当時は従二位)。果たしてその「一橋様」とは・・・

 

私はその「一橋様」は隠居後、斉敦に家督を譲り6年を経過してはいるものの治済だと考えていますが・・・

それに続く敬称「一位様」からの推測ですが同時期の従一位を探すと治済の六男で徳川斉匡(天保八年1837に叙任)がいます。ただし田安家に婿入りしていますから一橋家ではありません。

しかしまた治済が正式に「従一位」を叙したのはこの文書のあと文政三年(1820)でした。

 

要はそれぞれの年代が嚙み合わないことから頭を悩ませているわけですが、絶大権力を持つ将軍の父であり相良の領主、かつ拙寺隠居が給付を特別に受けていたことの御礼「忖度」、最大限の敬意を並べ立てたというところでしょう。

代官小島蕉園との交流を示す証もあり相良との関りを保とうとする意志を強く感じるのですが。