一面灰色の空は今にも「降らせるぞ」の感がありました。
昨日は降らなきゃ御の字の気持ちで法要開式。
しかし「大丈夫だろう・・・」のお調子者の意に反して墓参前にポツポツ。
その日は故人が大切にしていた仏具を見て欲しいとのことでそれらをお持ちいただいていました。
私の見立てで良きものなら保存、それ以外なら処分(お焚き上げ)して欲しいということでしたが、「これはいらないね」と即断してこちらで引き取った物(どちらか出された薬師如来のお札)以外の仏具・経典・打ち敷等は「私には判断しかねる」ということで今一度家族で再考、お持ち帰りいただきました。
明治初期の真宗の経典と手の込んだ刺繍のある打ち敷、敷物たちはデザイン的にも面白いもので額装でもすればインパクトある飾り物に変身するでしょうし、「遺物は捨てたらそれでお仕舞」です。その判断はいつでもできますからね。
また先達の気持ちが大いに伝わってくるものばかりでした。
最後に故人のお孫さんが「私が管理する」と言ってくれました。
検討して「やはり・・・」と思ったら「今一度お持ちください・・」ということで。
雨は小降りで許容範囲、難なく法縁は終了できました。
扨、昨日画像に加賀金沢にあって別の国名が二つほど出てきました(尾張と近江)。
その今も残る遠隔地の地名は要は「その地から当地に来た」人があったことを物語っています。各地にもそのような経緯で付けられた名が散見できますね。
小田原の唐人町などもそうでした。
何よりも金沢市街を歩くにあたって、私が以前から顔を出してみたいと考えていた真宗大谷派の寺院がありました。
その名が武佐山廣済寺(場所はこちら)です。
是非にお話をとばかりにアポなし突撃訪問はハズレ。
住職は不在でした。お嬢さんらしき方に応対いただきましたが、さらっとご挨拶をして退散。
その時は「また来れればいいや」ではありましたがそれ以来この地に足を踏み入れていません。もう少し粘れば良かったのかも。
昨日も私の不在時に榛原のK氏が来られたといいますが、やはり翌日からの金沢旅行について話していたとのこと。
今、私が金沢に向かうとしたら近江市場での満腹は外せませんがこのお寺に立ち寄ることは第一義ですね。
拙寺初代今井権七(郎)は「廣済寺門徒」というのが若い頃から耳にしていたフレーズ。
勿論その「廣済寺門徒」の廣済寺とはこちらの廣済寺ではありません。
近江廣済寺の門徒だったということです。
拙寺初代今井権七は三河本楽寺の叔父と合流し遠州に来たのでしたが今井権七が家康方に叔父が武田方に分かれて生き残りを賭けました。
叔父の建立した廣楽寺は当初の東福田の地から掛川に武田とともに移ったのでしたがその掛川廣楽寺の名称が廣済寺と本楽寺の「廣と楽」を取ったのだ・・・と聞かされていました。
そのように近江廣済寺との関わりについては、拙寺にとって基本中の基本。
その近江と金沢の廣済寺ですが、金沢の廣済寺の山号が「武佐山」というくらいでその関係性を示唆しています。
金沢近江町について石川滋賀県人会のサイトが詳しいのでそちらのリンク先を勝手に。「近江町成立の由来」です。
※→今戸の廣樂寺
私はそこに真宗門徒の「揆を一にする気概」というものを感じました。
相良の本通り周辺も古くからその主張をしたとすれば「近江町」などの字名ができていたかも知れません。
近江の地を祖とする皆さんが多いですからね。
近江から北陸に流れた人々そして拙寺初代とその関わりの深い諸家は遠江に流れた・・・その違い。
コメントをお書きください